戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

清水 しみず

 土佐国幡多郡足摺半島西岸に位置する港町。大船の停泊も可能な深い入江を天然の良港とする。室町・戦国期、土佐沖を経由して畿内と南九州を結ぶ航路の中継港となった。

「南海之津」

  『大乗院寺社雑事記』の文明十六年(1484)七月二十四日条によれば、奈良の大乗院に入る予定の一条房家が土佐一条氏の本拠・中村から足摺岬金剛福寺を経て清水に入っている。『雑事記』はこの記事の中で、清水について「南海之津」と記している。

南海路の中継港

 文明十五年(1483)、堺を出航した三隻の遣明船団は、土佐沖を経由する南海路を採り、土佐国幡多郡で越年した後、中国に渡海している。清水が「南海之津」とするなら、この幡多郡の停泊地が清水であった可能性がある。前年の文明元年(1469)八月、大内氏勢力圏を避けた遣明船団は、復路で九州の南から土佐国に帰着している。この際も清水に入港したと推測される。

 その後も幕府(細川氏)主導の遣明船は、往路で南海路を採っている。清水は同航路の重要中継港として位置づけられていたものと思われる。

  16世紀中頃に豊後に滞在した鄭舜功も、航路「夷海右道」の港の一つとして清水を挙げている(『日本一鑑』)。すなわち南西諸島から日向灘を北上して豊後蒲江に至り、豊後水道を渡って「深港」(宿毛湾北岸)や「柏島」などを経て清水に至る。清水からは「四崎」(与津)や「洲崎」(須崎)、「浦戸」などを経て和泉の堺に到達する。

港町、清水

 文明十二年(1480)、清水の蓮光寺が再建された。その際の勧進状には「海にのそミて往来の商客を利益し、風をわけて南北の舟人を送迎す」とある。多くの商船が行き交う港町清水の様子がうかがえる。

 16世紀末の『長宗我部地検帳』によれば、この蓮光寺の西に「市場」があった。そこは、清水の指導者である「漁父」新兵衛が抱え地として管理していたとみられる。また市場の西側には船頭の「日向」や、水主の又三郎、弥五郎、宗七郎、番匠の又五郎、小使の源左衛門の屋敷が連なっていた。

 清水の西側に隣接する越浦にも、水主の弥八郎や源一郎、源十郎らが屋敷地を給付されていた。ここもまた海運の拠点であったことがうかがえる。

参考文献

  • 朝倉慶景 「土佐一条氏と大内氏の関係及び対民貿易に関する一考察」(『瀬戸内海地域紙研究 8』
  • 市村高男 「海運・流通から見た土佐一条氏」 (市村高男 編 『中世土佐の世界と一条氏』 高志書院 2010)

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現在の土佐清水港。湾内には鹿島が浮ぶ。

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船島は清水湾の西側の入り江に浮かぶ島。その名から、かつて清水に外国船が入港し、停泊していたことがうかがえる。