戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

浦戸 うらど

 土佐湾中央部の内海・浦戸湾の入口に位置する港町。土佐中央部の内陸地域と外洋の結節点として古くから栄えた。

紀貫之の帰路

 10世紀前半、土佐守の任を終えた紀貫之は、浦戸から甲浦などを経て海路で京都に帰還した(『土佐日記』)。既にこの頃、土佐と畿内を結ぶ海路が存在していたことがうかがえる。

日本有数の港

 戦国期頃から広まった海の慣習法『回船式目』には、兵庫の辻村新兵衛尉、坊津の飯田備前守と並んで浦戸の篠原孫左衛門尉が記されている。戦国期には、浦戸が全国的に知られた存在であったことがうかがえる。

  また、瀬戸内の海賊衆・村上氏が海賊行為の根拠とするため偽作した「足利義稙御教書写」にも、同氏の勢力圏の端点の一つとして「土佐浦戸」が挙げられている。浦戸は、西日本海域の南端を象徴する港でもあった。

畿内との往来

 天正十六年(1588)の浦戸には、堺の納屋衆・千氏の一族や紀州雑賀門徒でのちに商人頭になる櫃屋の一族、さらに尼崎一向宗門徒の商人たちが住んでいた(『長宗我部地検帳』)。畿内出身者が、浦戸に多く移住してることがわかる。この背景には、畿内から土佐を経由して琉球、中国を結ぶ航路(南海路)の存在があった。

 戦国期の土佐には、堺商人の往来も確認できる。一向宗も、浦戸を拠点に土佐に進出していた。戦国大名・長宗我部氏による情勢の安定化もあって、畿内の商人・職人が浦戸へと集まり、発展を支えたと思われる。

参考文献