戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

河上 かわのぼり

 都治川が江川本流が合流する交通の要衝に位置した市町。江津市松川町市村のあたり。現在は国道261号線沿いの閑静な地区。中世は江川水運の上り口の船着場として栄えたとみられる。

江川の川港

 河上の地名の初見は、貞応二年(1223)三月。「石見国田数注文」(『益田家文書』)に「かわのほり十四丁五反三百歩」がみえる。

 一方で江川上流には、河上と対になる地名も存在する。永正九年(1512)六月の「小笠原長隆知行宛行状」(『庵原文書』)にみえる「河下」がそれで、現在の川本町川下(かわくだり)に比定される。

  これらのことから鎌倉期には既に河上、河下を舟着場として舟が上下に行き交う江川水運が成立していたことがうかがえる。河上は江川水運と日本海を結ぶ港であったのかもしれない。

河上市

 戦国期の河上には市場が成立していた。「安芸厳島神社廻廊棟札写」*1には、天正四年(1574)九月に「石州中郡河上市」の「本田讃岐守」が安芸の厳島社に廻廊一間を寄進したことがみえる。「本田讃岐守」の人物像は不明だが、厳島神社に寄進を行う程度は富裕な人物だったと思われる。

 河上は江戸初期には市村と改称しているが、文化十四年(1817)刊行の『石見八重葎』は地名の由来について、市がたった地であることによる、と記している。

花崗岩製十三層塔

 中世に河上市が成立していた松川町には14世紀代とみられる花崗岩製十三層塔が残されている。石材は御影石と推定される。御影石は現在の兵庫県神戸市で産出される石材で、中世の石見国には瀬戸内海を経由して日本海を西からもたらされたといわれる。この松川町の十三層塔は島根県内では最も東に位置する。

 なお、江川上流の川本町木谷(先述の川下の付近)には延文三年(1358)の紀年銘を持つ凝灰岩製層塔(木谷石塔)が存在する。

関連人物

参考文献

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バス停付近から松川町市村を眺む。

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松川町市村の家並み

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松川町市村の家並み2

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清泰寺。鎌倉末期に松山城(川上城)を築いた川上房隆によって創建されたという。

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江川と都治川の合流地点

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松山城の遠景。

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「永禄三庚甲」と刻まれた石塔。松山城の本丸部にある。

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松山城の石積み。頂上部に何カ所か残存が散見される。

*1:享保二年(1717)二月に筆写されたもの。『大願寺文書』(『広島県市』古代中世資料編Ⅲ)