戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

能美 宣仍 のうみ のぶより

 毛利家臣。幼名は亀千代丸。仮名は弥四郎。官途名は内蔵丞、後に筑後守。宣通の子。嘉次、時経らの父。

父の跡を継ぐ

 生年は天文十七年(1548)。永禄十年(1567)五月、毛利輝元の加冠により元服。同月に父宣通が知行していた周防国吉敷郡宮野庄(現在の山口市北部)の15石および山口屋敷2ヶ所の継承を認められた。

 その後天正十六年(1588)六月、長門国大津郡日置庄(山口県長門市)の内の27石余りを給付されている。天正十九年(1591)の「毛利氏八箇国御時代分限帳」にも、長門大津に能美内蔵尉(宣仍)の給地がみえる。

検地の実施

 毛利輝元が、検地を行った宣仍を労った書状が残されている。毛利家中では吏僚的役割を担っていたのかもしれない。また長門国阿武郡の給地打渡し等について、佐世元嘉らから指示を受けている。柳沢元政と共に何らかの任務にあたったこともあったらしい。

家を分ける

 毛利氏の周防・長門両国への減封後、慶長十六年(1611)四月時点で、宣仍の給地は200石となっていた。宣仍はこのうち45石と30石を、それぞれ子の嘉次と時経に分け与え、自身の石高を125石とした。本家である宣仍の跡は、後に孫の元古(嘉次の嫡子だった)が継いだ。

 元和九年(1623)五月十二日死去。享年75歳。

参考文献