戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

トウモロコシ(中国) とうもろこし

 中米を原産とするトウモロコシは、16世紀には中国に伝播していた。16世紀後半、杭州や福建で栽培が行われていたことが記録にみえる。当時の中国においては、番麦、御麦、玉蜀黍、玉米、玉麦、玉蜀林などと呼称された。

皇帝への献上品

 中国におけるトウモロコシの最初の確実な記録は、浙江省杭州の田芸衡が1572年(元亀三年)に著した『留青日札』といわれる。同書には「御麦」(トウモロコシ)について、下記のような記述がある。

御麦は西番に出で旧名番麦なり。その曾(かつ)て進御を経たるを以ての故に御麦という。幹葉は稷(きび)に類し花は稲穂に類す。その苞(穂軸の包み)は拳の如くして長く、その髭は紅絨(赤く柔らかい糸)の如く、その粒は芡実(オニバスの実)の如く大にして瑩たり(玉のように光って白い)。白花頂に開き、実は節に結ぶ。真に異穀(奇妙な穀物)なり。

 「西番」(西方の外国)から伝わったトウモロコシは、「番麦」(外国の麦)と呼ばれていたが、皇帝に供されたことにより「御麦」と呼ばれるようになったという。また「真に異穀なり」とあることから、当時はまだ珍しい作物であったとみられる。

 『留青日札』には、トウモロコシが既に杭州に導入され、多くの農民が栽培していることも記されている。スペインのアウグスチン派修道士ゴンザレス・ド・メンドーサが著し1585年(天正十三年)に刊行された『シナ大王国誌』にも、1577年(天正五年)に福建省でトウモロコシが栽培されていたとが記されており、16世紀後半には中国南部でトウモロコシ栽培が普及していたことがうかがえる。

本草綱目』と『農政全書』

 1596年(慶長元年)に刊行された李時珍の『本草綱目』において、トウモロコシは「玉蜀黍、種ハ西土ニ出ズ。種ハ亦タ罕(かた)シ」で始まる短い文章で紹介されている。ただし、付記されたトウモロコシの図は、雌穂が葉腋ではなく茎の頂上についており、著者も絵師も栽培中のトウモロコシを見たことがなかったと想定されるという。

 この『本草綱目』は1602年(慶長七年)に日本に渡り、同国の本草学の発展を促進。1630年(寛永七年)、日本の儒学者林羅山が著した本草書『多識篇』では、トウモロコシは「玉蜀黍」と漢字表記されている。

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 とはいえ、17世紀の中国において、トウモロコシの栽培はそれほど普及しなかったらしい。明朝末期の1637年(寛永十四年)に刊行された宋応星の『天工開物』には、上巻一穀類の部にイネやコムギ、キビ、アワ、ダイズ、ソラマメ、インゲンマメ、アサ、ゴマなどが記されているが、トウモロコシやサツマイモなどの新大陸原産の作物はみえない。

 徐光啓が編集し、1639年(寛永十六年)に刊行された農書『農政全書』にも、トウモロコシについての項目は無い*1。ただし注として「玉米、玉麦、玉蜀林などともいう」と書かれている。現在の中国でトウモロコシを意味する「玉米」の呼称が記録に見えるのは、この書が初めてとされる。なお明朝の万暦年間(1573〜1620)に成立したといわれる長編小説『金瓶梅』には、玉米粥や玉米麺が複数回現れ、ご馳走として描かれているという。

参考文献

  • 鵜飼保雄 『トウモロコシの世界史 神となった作物の9000年』 悠書館 2015
  • 山本紀夫 『先住民から見た世界史 コロンブスの「新大陸発見」』 株式会社KADOKAWA  2023

本草綱目 第1冊(序・総目録・附図巻之上) 李時珍
国立国会図書館デジタルコレクション)

本草綱目 第17冊(第22-25巻) 李時珍 (国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:サツマイモについては詳しい記述がある。