戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大賀 兵部左衛門尉 おおが ひょうぶさえもんのじょう

 石見国の国人・三隅氏の家臣。三隅川河口の三隅湊を本拠とした。

三隅湊の開拓

 文明三年(1471)六月、大賀兵部左衛門は、「信厚」という人物から湊聚泉寺前の知行を安堵されている。「信厚」は三隅氏当主・三隅豊信の偏諱を受けた人物と考えられ、三隅氏の一族か重臣と推測される。

 なお史料で「信厚」は、知行地を「湊聚泉寺前河成」としている。洪水などにより、もとは田畠であった所が水没していたとみられる。また「田は出来ほうたい」ともしており、大賀氏が開拓により知行を増やすことも認めている。兵部左衛門尉が、独力で開拓を行い得る財力を持っていたことをうかがわせる。

 永正五年(1508)二月には、三隅興兼が湊聚泉寺領職事と「大賀壱町并門前屋敷」を兵部左衛門尉に安堵している。この時も「川面ハ田畠出来次第」知行してよいとしている。ただ翌永正六年七月、三隅興兼は兵部左衛門の子の弟法師(後の道世か)に、兵部左衛門の知行分と「湊津」の事を安堵している。この時兵部左衛門尉は元服前の子を残したまま、死去していたのかもしれない。

大内氏分国での海上活動

 永享四年(1432)三月、三隅湊の兵部左衛門が、大内持世から「分国津々浦々并関所」での「煩」(通行料とみられる)を免除されている。この兵部左衛門は上記の兵部左衛門尉の先代の人物と考えらえる。このような特権を与えらえたことから、大賀氏が船を使って交易していたことが推測される。

参考文献

  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社