石見益田の国人、益田氏の家臣。益田氏の有力一族である益田兼貴の使者として肥前平戸の松浦隆信のもとに赴いた。
肥前平戸への下向
年未詳の八月二十日付で肥前平戸の領主・松浦隆信が益田兼貴に宛てた書状が「益田高友家文書」に残されている。これによれば、大賀主計允が益田兼貴の使者として「当津」(松浦隆信の本拠、平戸か)に下向。隆信は益田氏との協力関係締結を表明し、江崎・須佐両津(益田兼貴の所領)に船を派遣することを伝えている。
隆信が兼貴宛の書状を認めた翌日、大賀主計允は平戸から出船するために天候の回復を待っていた。その宿所宛に、松浦家臣とみられる中嶋常栄からの書状が届いた。常栄はこの中で、籠手田兵部少輔や井関主殿助、樋口橘右衛門尉など松浦家中の有力者を挙げ、今後松浦氏に協力を依頼する際には話を通しておいた方が良いとアドバイスしている。
主計允は益田・松浦両氏の今後の関係維持のため、松浦家中の構成も調査していたものと思われる。なお、この中嶋常栄書状も「益田高友家文書」に収められているので、主計允は帰国後に報告と併せて兼貴に提出したのだろう。
大賀氏の海上活動
この主計允は、三隅湊を本拠地とする大賀氏の一族とみられる。同氏は大内氏から分国津々浦々での関役免除を認められるなど、多くの船を有して日本海で交易を展開していた。主計允が使者として平戸に赴いた背景には、もともと大賀氏が海を舞台に活動し、平戸のあたりまで航海できる存在であったことが関係していると思われる。