戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

光清 左近将監 みつきよ さこんしょうげん

 竹原小早川家臣。京都での上番を担当した一人。

京都での上番任務

 小早川弘景は、京都での上番任務を一番から十六番に分け、それぞれ日数を定めた。光清左近将監は、柚木某とともに九番に割り当てられている(「小早川家文書」)。

小早川弘景の評価

 15世紀末頃、小早川弘景は子の弘平への置文を作成し、家中の者の序列や評価等を具体的に書き残した。

 この中で光清氏について、親類衆や包久氏、小梨子氏、南氏、木谷氏、裳懸氏ら有力家臣とともに挙げて「よくよく目をかけらるべく候」と記している。家中でも重要な存在であったことがうかがえる。

 また別の箇所では、詳細は不明ながら「我等親子御事」を理由に、光清氏を大切にすべきであると述べている。

備北での光清氏

 現在の広島県三次市三良坂町に光清という地名がある。左近将監ら竹原小早川氏に仕えた光清氏は、元はこの地の土豪であったのかもしれない。

 南北朝期の文和三年(1353)八月、室町幕府の二木頼章が、祇園神社領小童保(現在の三次市甲奴町小童)を押妨した光清左衛門尉や仁賀四郎左衛門尉らを排除するよう守護・岩松頼宥に指示している(「八坂神社文書」)。

 この時期、光清の土豪とみられる光清氏が近隣の仁賀氏や広沢氏、石田氏らとともに南下して小童保への押妨を繰り返している。

 後に光清には備北の有力国人である和智氏の勢力が伸びたらしい。同地の光清城は、児玉将元の居館と伝わっている。児玉将元は、和智誠春の弟である湯谷久豊の妻の叔父にあたるという。

 弘景の置文でも、(詳細は不明ながら)先年に和智氏を迎えた際、光清氏が関わったことが示唆されている。その出身から、和智氏と繋がりがあった可能性もある。

参考文献