綿糸に動物の毛をまぜて織った毛織物。主に中国から輸入された。室町期は高い身分の者しか使用が認められない貴重品だった。江戸期に入るとより高級な毛織物である羅紗などが輸入され、価値が相対的に低下。一方で足袋の素材となるなど、下級武士、庶民にも使用が広がっていった。
兜羅綿とは
正徳二年(1712)刊行の『和漢三才図会』によれば、「褐子(とろめん)」は「襪褐」「兜羅綿」「止呂女牟」などとも呼ばれる毛織物であり、木綿と毛をまぜて織るとする*1。産地では中国の南京のものが最上であり、次が北京、その次が山東であったという。
また宝暦三年(1763)、蘭学者・青木昆陽は『昆陽漫録』で兜羅綿について下記のように記している。
兜羅綿、羅紗、ワカチガタケレドモ、兜羅綿ハ羅紗ノコトト見ユ。元来西土ニテ、羅紗ヲ兜羅綿ト譯セシオ、後アヤマリテ今ノ兜羅綿トナシタリトミヘタリ。
兜羅綿について、羅紗と並ぶ舶来の毛織物とみなしていたことがうかがえる
高貴な身分の鞍覆
兜羅綿の日本における史料上の初見は、平安期にさかのぼる。天台宗の僧・源信は、永観二年(984)に著した『往生要集』の中で、弾力性のある柔らかい状態の例えとして「兜羅綿」を用いている。
室町期の兜羅綿の使用例として、鞍覆が挙げられる。鎌倉府の故実書『殿中以下年中行事』*2には身分による鞍覆の材質についての記述がある。これによれば、「公方様」の鞍覆は緞子か金襴であるのに対し、管領は兜羅綿、毛氈であり、奉公人は播磨皮であると定められていた。
また永正年間成立の故実書『家中竹馬記』にも、「鞍覆は赤き毛氈並兎羅綿などは、大名などの用ひらるるによって、諸家の内者は赤毛氈などをばせぬ也」とある。兜羅綿が、大名以上の身分の者に使用を許される貴重な唐物であったことがうかがえる。
遣明使の買い物
室町期の兜羅綿は、日明貿易によって日本に輸入されたとみられる。実際に遣明使節が中国で購入していることが、当時の日記に見える。
天文十八年(1549)九月十三日、遣明使節の正使・策彦周良は、北京から寧波に戻る途中の清原水馬駅(臨清州城の東水門外に位置する)において、樗子*3という人物を介して「覩羅綿三端」を購入。翌々日の十五日にも、樗子に命じて薬材と「紅紫覩羅綿等」を購入している(「再渡集」)。
なお九月十四日条には「日衆易買之事亦未弁治」とあり、翌十五日条には「且衆人売買亦未了」ともある。遣明使節に同行した客衆などが、兜羅綿を含む商品の仕入れを時間をかけて行なっていたことがうかがえる。
江戸期の輸入状況
元和二年(1616)の徳川家康の遺品目録『駿府御分物帳』の染織品の中には、「とろしま」「とろめん」「黒とろめん」「けとろめん」があった。しかし猩々緋や羅紗、へるへとらん(ベルベット)に比べると、その種類、数量は明らかに少ない。
この時期、羅紗や羅背板などの高級毛織物が多量に輸入されるようになっており*4、兜羅綿の価値が相対的に低下していた可能性があるという。
ただし、羅紗などと同様に兜羅綿の輸入量は多かった。江戸前期の茶人・久保長闇堂による茶史茶説書『長闇堂記』には、次のような記述がある。
それよりして、世にねすミ色とてもてはやせり、又、あやおりのもめん、ねすミ色、とろめんとて唐よりおゝくわたれり
正徳元年(1711)の兜羅綿の輸入量は6198反(『唐蛮貨物帳』『長崎御用留』)、文化元年(1804)では5392反であった(『村上文書差出帳面』)。前者は絹以外の織物13657反のうちの45%を占め、後者は同じく絹以外の織物7369反のうちの78%を占めていることになる。
一方でその価格は低廉だった。羅紗、羅背板、へるへとあんなどの毛織物に対し、兜羅綿は5分の1から10分の1あるいはそれ以下の値段であったとみられる(『唐蛮貨物帳』)。
とろめん足袋
万治三年(1660)正月、金沢藩で出された「御赦免衣類之覚」によると、「大身小身并子供」に許された織物の一つに「とろめん」が挙げられている。江戸前期、兜羅綿は下級武士が着用するものとなっていたことがうかがえる。
江戸前期における兜羅綿の使用例の一つに足袋がある。元禄三年(1690)の『人倫訓蒙図彙』の「足袋師」の項には、「とろめんたび、これを綾小路通御幸町より西の方にあり。又室町通四條の南にもあり」と記されている。
なお正保四年(1657)刊行の『毛吹草』には、山城国産物の項に「綾小路足袋」が挙げられており、とろめん足袋はこの頃までに遡る可能性もあるという。
参考文献
- 奥村萬亀子 「渡来裂の軌跡ーとろめんの場合ー」(『京都府立大学学術報告(人間環境学・農学)』第49号 1997)
- オラー・チャバ 「天文八年の「大内氏」日本使節とその貿易活動」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
*1:類似する物として、オランダの「阿留女牟左伊」(アルメンサイ)、「倍留左伊」(ヘルサイ)、「左阿伊」(サアイ)、「左留世」(サルゼ)を挙げている。これらは寛永十八年(1641)から慶安三年(1650)の『長崎オランダ商館日記』等の記録にもみえる。
*2:享徳三年(1454)の成立とされ、関東公方足利成氏の殿中での礼式や年中行事をまとめたもの。
*3:策彦周良の従僧か。日記(「再渡集」)には、同じく従僧とみられる「熊子」という人物がいる。
*4:慶長十八年(1613)、ウイリアム・アダムスは「羅紗は過去4年間に新イスパニア・メキシコ及びオランダより多く輸入され、価甚廉にして、多くは売れ残り」と書簡に書いている。