戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

伏見酒 ふしみさけ

 洛南の伏見で造られていた酒。「伏見酒」の語がみえるのは16世紀末であり、当時は興福寺などの僧坊が作る奈良の酒と競合していた。また酒造業発展の背景には、豊臣政権による伏見城下町の整備があるといわれる。

伏見酒と奈良の多聞院

 『山科家礼記』長享三年(1489)四月二十八日条に、伏見に樽代を支払った記録がみえる。この頃には、伏見に酒屋が存在していたことがうかがえる。

 ただ、明確に「伏見酒」が史料にみえるのは、慶長四年(1599)となる。『多聞院日記』慶長四年(1599)正月二十五日条に「伏見ヨリ五明二本来了。伏見酒二駄遣之、賃一斗四升遣之」との記事がある。

 奈良興福寺塔頭である多聞院では、伏見酒を買い入れていた。例えば慶長四年(1599)二月二十四日、寺男の弥三が「伏見樽」2駄とアラレ(霰)5升を持って来たことがみえる。なお多聞院では、アラレを酒に入れて「霰酒」も造っていた*1

奈良酒の伏見への出荷

 慶長四年(1599)二月一日、弥三が多聞院で造っていた酒が完成。同日、多聞院では伏見から酒を買ってきて、「呑クラヘ」(飲み比べ)を行っている。

 その結果に自信を深めたのか、二月三日、多聞院では弥三に酒一駄を持たせて伏見に派遣。同月十日にも、弥三は伏見に酒を運んでいる。『多聞院日記』には、以後も伏見に酒を運ぶ記事が散見される*2。運ばれた酒の販売は、伏見の酒屋が担っていたと考えられる。

江戸初期の伏見の酒造業

 天明六年(1786)に作成された口上書によると、明暦三年(1657)当時、伏見には83軒の造酒屋があり、年間の酒造仕込米高総計は1万5611石8斗(2342トン)であったという。1軒当たりの平均酒造仕込米高は188石1斗となる。同時代の洛中洛外や京都周辺のそれと比較すると、この頃の伏見の造酒屋の生産規模はそれほど大きくなかったことが推測されている。

 なお貞享三年(1686)刊行の『雍州府志』巻6土産門には、伏見で醸造されていた米酢「伏見醋」の記述がある。

参考文献

  • 吉田元 『日本の食と酒』 講談社 2014
  • 加藤百一 「城下町の銘酒(その1)」(『日本醸造協会誌』97巻 2002)

多聞院日記 第5巻 慶長四年正月廿五日条 国立国会図書館デジタルコレクション

*1:多聞院日記』慶長四年(1599)正月十八日条 他

*2:伏見に酒を運んだのは、他に常如院、恵心院庄二郎、龍雲院真禅坊、源勝房らがおり、酒の販売は興福寺の諸塔頭が関わっていたことがうかがえる。また多聞院の酒の製造には、資金や原料米、設備面において、郡山のヲカヤ正善という人物が関わっていたことが『多聞院日記』からうかがえるという。