アナトリア西部のキュタヒヤで作られた陶器。遅くとも15世紀末までには生産が始まっていたとみられる。同じくアナトリア西部のイズニクと競合しながら発展し、18世紀初頭までに陶器タイルの分野でイズニクのシェアを奪うに至る。
キュタヒヤ・タイルの早い例
キュタヒヤ聖母教会のワクフ(宗教寄進財産)文書にある15世紀末の記録には、「タイル職人」として名前が記された人々の存在が確認できる。このことからキュタヒヤにおける陶器タイルの生産が15世紀末までには始まっていたことが分かる。
生産地について確実な証拠はないが、以下の例がキュタヒヤ・タイルの最古の資料と考えられている。
- 1377年(永和三年)に建築されたキュタヒヤ・クルシュンル・モスクにおけるミナレットの単色釉レンガ
- 1428年(正長元年)築のゲルミヤン侯国のヤクプ・ベイ二世廟における石棺、および床に貼られたトルコブルーの六角形タイルや三角形タイル、多彩釉技法が用いられた緑タイル
- 1433年(永享五年)築のイスハク・ファキヒ・モスクの入口柱廊の右側の壁や床を被覆するトルコブルーの施釉タイル
白地藍彩の製作
15世紀末から16世紀初頭以降、キュタヒヤでは白色陶土が用いられる。これにより、同時代のイズニクと同じく、白地藍彩(白地に藍色で装飾されたことに由来)と呼ばれる陶器がキュタヒヤでも作られるようになった。
白地藍彩が用いられたオリジナルのキュヒタヤ産タイルが用いられた例としては以下のものが挙げられる。
- 1487年(長享元年)築のキュタヒヤ・サライ・モスクのミフラーブ(メッカの方向を示す壁龕)のタイルと説教壇入口上部のタイル
- キュヒタヤ・クルシュンル・モスクにおいて、1520年(永正十七年)の修復時にミフラーブに貼られた「アッラーの他に神はなし」と書かれた一組のタイル
- キュヒタヤ・キュキュルト・キョユ・モスク(建築年代不明)において、入口柱廊の窓の上部に位置する、オジー・アーチ形をしたタイル・ティンパヌム2つ
この時期のキュヒタヤで用いられていた陶土は、イズニクの陶土と比べると、よりピンク色を帯びているとされる。さらに分析調査の結果から、その釉薬には鉛の含有量が多いことが判明している。
イギリスのゴッドマン・コレクションには、アルメニア語の銘文が記されたキュタヒヤ陶器の水注がある。高台内にある6行の銘文によると、キュタヒヤ出身のアブラハムを記念して1510年(永正七年)に製作されたものであったことが分かる。
また同コレクションには、頸部が欠けているが、アルメニア語銘文が書かれた長頸瓶がもう一つある。銘文によると1529年(享禄二年)製作のもので、司教テル・マルティロスによってアンカラ聖母修道院のためにキュタヒヤに発注されたことになっている。この長頸瓶はトルコ青色を加えた螺旋文に特徴づけられる「ハリチ手(ゴールデン・ホーン様式)」であり、イズニク以外に同時代のキュタヒヤでも「ハリチ手」の陶器が生産されていたことを示している。
16世紀中頃から17世紀
16世紀中頃、「ロードス手」として知られる白地多彩陶器が現れる。しかしキュタヒヤでは、この時期のタイル建築や白地多彩タイルが使われた建築が一例も残っておらず、詳細は不明な点が多いとされる。
この時期、オスマン朝の大宰相リュステム・パシャはキュタヒヤのバルクル地区に建設させたメドレセ(神学校)の隣にタイル工房を設立。首都イスタンブルのエミノニュ地区において1561年(永禄四年)に建設させた自身のモスクのために、この工房でタイルを製作させたといわれる。
また1591年(天正十九年)ごろから、イズニク のタイル工房の生産が増大したため、材料となる「カラヒサルのボラ」が必要となったが、この時はカラヒサルからではなくキュタヒヤのフィンジャン(コーヒーカップなどの小碗)職人から入手している。キュタヒヤではこの材料を常備していたことがうかがえる。以後、イズニクの職人たちは必要なボラはキュタヒヤから”出来合い”のものを買うようになったという。
17世紀に入ると、キュタヒヤ陶器はイズニク陶器と競合するようになる。1607/8年の勅令から、イズニクとキュタヒヤの職人の間で原料に関する諍いがあったことが分かっている。また同時期の公定価格簿から、キュタヒヤ陶器がイスタンブル市場に入っていたこと、そしてイズニク陶器と価格競争をしていたことが指摘されている。
タイル生産においてもイズニク・タイルに比肩するようになる。1617年(元和三年)に完成したイスタンブルのスルタンアフメト・モスク(通称「ブルー・モスク」)では、イズニクとキュタヒヤのタイルが一緒に使われたと考えられている。スルタン・ムラト4世の母マフペイケル・キョセム・スルタンによって1641年(寛永十八年)に建設されたウェスキュダル・チニリ・モスクにも、キュタヒヤのタイルが用いられた。
18世紀以降
キュタヒヤと競合していたイズニクは、17世紀に衰退。1709/10年に行われたスルタン・アフメト3世の王女ファトゥマの宮殿修復の際には、単色タイル7000枚、大小の絵タイルそれぞれ1000枚と1500枚の発注がキュタヒヤに行われている。これはタイルの供給先がイズニクからキュタヒヤに代わったことを示す事例とされる。
18世紀にはキュタヒヤ・タイルで装飾された教会堂もかなり見られるようになった。これらのタイルには、アルメニア語の銘文、十字架、天使、聖者像、旧約・新約聖書にある一場面などが描かれている。
キュタヒヤ・タイルが用いられた主要な教会堂には、トプハーネ・キルコル・ルサヴォリチ聖堂(イスタンブル)、聖ヤコブ大聖堂のエチミアドジン鐘塔(エルサレム)、スルプ・アストヴァザズィン聖堂(アンカラ)、聖ラッザロ修道院(ヴェネツィア)などが挙げられる。
キュタヒヤでは日常生活の必要性から生まれた陶器やオブジェも生産していた。競合先のイズニクで釉下彩に用いられた緑色、コバルト色、トルコブルー、サンゴ赤色に、18世紀のキュタヒヤでは黄色、紫色が加えられ、色彩のバラエティーはかなり豊富になった。この時期は器形もバラエティー豊富であり、小形品から径15cmまでの皿、茶碗、扁壷、バラ水瓶、そして吊り飾りが見られる。
ただ18世紀末に近づくにつれて陶土および装飾の品質低下が目立つようになり、19世紀に入って衰退。同世紀末には停止状態となった。