戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

エルサレム Jerusalem

 地中海東岸、パレスチナ地方の中心都市。ユダヤ教キリスト教イスラム教それぞれの聖地。紀元前から文献にみえ、16世紀にはオスマン帝国支配下で繁栄した。

初期のエルサレム

 テル・マルディフ(古代都市エブラ)で発掘された紀元前2250年に遡る粘土板文書(エブラ文書)にウルサリムの名が見え、これがエルサレムの文献上の初出とされる。紀元前20世紀と前19世紀のエジプトの二種の呪詛文書には、ルシャリムームと書かれている。

古代イスラエルの首都

 紀元前10世紀、古代イスラエルの王・ダビデエルサレムを占領し、パレスチナ最初の独立国家の首都とした。ダビデの跡を継いだソロモンは、エルサレムに神殿を建設した。

 エルサレムは当初こそ水資源と地形条件に恵まれた戦略要地だったが、町の拡大にともなって水は不足し、防衛上の利点も消失。エルサレムはただ神殿が建つ聖なる町、神に選ばれたダビデの町としてのみ、王国の首都として存在した。

三大宗教の聖地

 後のローマ帝国時代、エルサレムイエス・キリスト処刑の地としてキリスト教の聖地となり、7世紀からのイスラム支配時代にも聖地(エル・クドゥス)と称され、メッカ、メディナに継ぐイスラム教第三の聖地となった。

 一方で両時代ともエルサレムは、パレスチナ統治の首府とはならなかった。エルサレムが再びパレスチナの中心となるのは、十字軍によってエルサレム王国が建国された一時期だけだった。

イスラムの宗教都市

 十字軍からエルサレムを奪回したアイユーブ朝は、エルサレムの城壁を破壊した。マムルーク朝時代も城壁は修復されなかった。

 一方で安定したマムルーク朝支配下で、エルサレムイスラムの宗教都市として発展した。13世紀から15世紀にかけ、給水施設の拡充、市場の建設、公共建物の建設が進み、イスラムの宗教研究のための神学校マドラサも多数建てられた。ムスリムの巡礼はアフガニスタンやスペインなど多くの国々からやってきたという。

  1488年(長享二年)三月、北イタリア出身のラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)、オバディア・ベン・アブラハムエルサレムに到着した。オバディアはイタリアに宛てた書簡の中で「それはほとんど破壊され、廃墟と化している。いうまでもなく町の周囲に城壁がない」とエルサレムの印象を語っている。彼はさらに町に四千の家屋があり、その中にユダヤ人の家屋はわずか70しかないことを述べ、ユダヤ人コミュニティの衰退を嘆いている。

  オバディアは平和なエルサレムの町の様子も記しており、バザール(市場)として中央市場、スパイス市場、野菜市場、それにあらゆる調理された食品とパンを売る四つの市場があることを述べている。

オスマン帝国治下のエルサレム

 1516年(永正十三年)十二月、オスマン帝国のスルタン・セリム一世がエルサレムに入城。翌年、マムルーク朝オスマン帝国に滅ぼされた。帝国の最盛期を現出したスルタン・スレイマン一世の時代、1219年(承久元年)にアイユーブ朝エルサレムを非要塞化して以来の城壁の建設が進められ、1541年(天文十年)に完成した。市城壁の長さは全長約4000メートル。「ライオン門」や「ヤッファ門」、「ダマスクス門」などの重厚な城門も併せて建設された。

 オスマン帝国支配初期の16世紀、エルサレムの繁栄は人口からもうかがえる。同国の1525~1526年の人口調査ではエルサレムの人口は5607人。3分の2がムスリムで、5分の1がユダヤ人、8分の1がキリスト教徒だった。

 その15年後の調査では、人口約16000人と大幅に増加。12000人以上のムスリムとともに1958人のユダヤ人、1956人のキリスト教徒がエルサレムに住んでいた。

巡礼者

 オスマン帝国時代のエルサレムには多くの巡礼者が訪れた。1630年(寛永七年)に来たフランシスコ会の修道士エウゲネ・ロジャーは、「あらゆる人種及び宗教のセクトからやってきている」と記しており、ユダヤ人、ムスリムキリスト教徒(カトリック)、プロテスタント(彼はラディカルな離脱者と呼んでいる)、ギリシア正教徒、アルメニア人、コプト人、エチオピア人、インディアン土着人、イエメン、エジプト、バルバリ沿岸(北アフリカ)及び他の国々を挙げている。

 ムスリムは自由な通行が可能だったが、ユダヤ人とキリスト教徒は高額の税金を払い、最初はダマスコ門で厳重な調査の上、エルサレムに入ることができた。

 1619年(元和五年)、遥か日本からの巡礼者がエルサレムを訪れている。その名はペトロ岐部カスイといい、豊後国国東半島の岐部出身のキリスト教徒だった。1615年(元和五年)にマニラ行きの朱印船に乗って国外に脱出してのち、マカオ、マラッカ、インドのゴアを経てペルシアに至り、シリア砂漠を横断してダマスカス、そしてエルサレムに入城した。彼は半年ほどパレスチナに滞在してローマに向かい、そこで司祭叙階を果たした。

参考文献

エルサレムの眺め ウィレム・フレデリック・ウェーマイヤー 1834年 - 1854年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

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オリーブの山からのエルサレムの町の展望 from写真AC