古代・中世を通じて長門国の国衙、守護所(守護代所)が置かれた同国の政治的中心都市。同時に長門二宮や国分寺を中心とした宗教都市でもあった。また山陽道が通過し、串崎に港湾を擁しており、流通・経済の要衝でもあったとみられる。
長府の水運業者
長府には、二宮(忌宮)の支配下にある船頭や水手といった水運業者が存在していた。『梅松論』に建武三年(1336)四月、足利尊氏の東上に長府串崎(櫛崎)の船頭が協力したことがみえる。
また永和四年(1378)四月、大内氏が奉行人連署奉書をもって「長門国符分高麗渡水手」を、「当宮二宮御近辺水手」であることを理由に免除している。
長府に集まる商人
二宮の祭礼時には、多くの商人が長府に集まった。文明十年(1478)八月、大内氏奉行人が祭礼時の「上下商人并府中地下仁」の売買を保障するため、「軍勢甲乙人」の「制止」を行い、「押買狼藉之輩」の告発を命じている。
明応四年(1495)八月にも、大内氏によって商行為関係の四か条が定められた。すなわち、当町諸商売成敗の厳重な実施、押買狼藉の制止、公方買・守護買の停止、諸国廻船への非法の停止が示された。
町人による自治
長府の商業的繁栄に伴い、長府町人の実力も向上した。弘治三年(1557)三月、毛利氏の進駐を前にした長府と赤間関の町人は、交渉により、軍勢狼藉に対する合戦による抵抗権を認めさせている。
また天正九年(1581)七月には、北町・南町・亀甲町・惣社町の四ヶ町が「衆評」をもって神事の法度を取決めた。これを「町歳寄」の連署で小守護代・勝間田春景に提出しており、自治機能の確立もみることができる。