石見小笠原氏の重臣小笠原長実の被官。官途名は三郎兵衛尉。実名の「実」は、長実からの偏諱かもしれない。小笠原氏被官として大家東郷の町や大家大宮八幡宮の支配に関与した。
小笠原氏の大家東郷支配
天文十四年(1545)九月、邑智郡河本郷を本拠とする石見小笠原氏当主の小笠原長徳が大檀那となって、大家大宮八幡宮(石清水八幡宮)拝殿の造営が行われた。大家大宮八幡宮は、天文三年(1534)二月には大家兼公らが大檀那となって宝殿を造営していたが、大家氏惣領家は天文十四年には既に没落していたとみられ、小笠原氏が大家東郷など大家氏旧領を支配下においていた。
野田実家は、小笠原氏のもとで「町中」の支配に関わったとみられる。
天文十五年(1546)二月、小笠原氏重臣の小笠原長実は、野田実家と大宮八幡宮神主須子宮内大夫に対し、「おも田原」から「大かめ岩」に至るまでの柴草の領有と管理を、両名と「町中」に預けるとする主家の決定を伝えている(「大宮家文書」)。実家は大家の「町」の構成員としての側面も併せ持ち、代官のような役割を果たしていた可能性が指摘されている。
大家大宮八幡宮との関わり
また野田実家には大家大宮八幡宮の管理にあたる任務もあった。天文十六年(1547)二月八日、実家は八幡宮神主須子宮内大夫に対し、九月二十三日の祭田として河原田一貫前を宛てるよう小笠原氏の指示があったことを伝達。同じく正月一日と九月の御湯立大本祭の祭田として木切山の一貫前を与えられるので、懇ろに祭礼を行うよう命じている(「大宮家文書」)。
上記の件については翌日の二月九日、小笠原長実からも神主須子宮内大夫に対し、九月二十三日の祭礼と御湯立、正月一日の「大もと祭」用の費用として二貫前の地を別紙の坪付とともに渡すことが伝えられた(「大宮家文書」)。
この坪付は実家によって作成されており、二月九日付けで宮内大夫に渡されている。その内訳は「森代之内河原田篠丸分」一貫前、「滝之首木こり山之内」八百前、「こり山之内家のまへ」二百前であった(「大宮家文書」)。
なお、石見小笠原氏は天正二十年(1592)に毛利輝元によって出雲国神門郡神西に移されるが、野田氏は大家の有力者として残ったらしい。慶長四年(1599)十二月二十三日、大家大宮八幡宮の宝殿の上葺きが行われ、その際の棟札に「本願野田市兵衛」と記されている。