備後国で生産された畳表。同国沼隈地方で栽培されていた藺草を原料として作られたとみられる。室町期には「備後」を冠するブランドが知られており、織田信長が築城した安土城でも使用されたことが記録にみえる。
備後における畳生産
備後の「畳」(古くは筵、薦、皮畳、絹畳など敷物の総称)は、平安末期には大田荘など荘園の年貢物として貢納されていた。承久二年(1220)には、弘筵を献じる四カ国の一に備後の名がみえ(『玉葉』同年十一月五日条)、寛元元年(1264)に弘筵を催促された五カ国の中に「備後五枚」とある(『葉黄記』同年四月二十二日条)。
「備後」ブランドのはじまり
南北朝期の貞和三年(1347)には、史料に「備後筵」がみえる(『師守記』同年八月二十三日条)。すでに、特産化がすすんでいたことがうかがえる。「備後筵」の名称は長禄四年(1460)の『大乗院寺社雑事記』にも見える。「備後」を冠する名称は、この時期における畳の商品的価値の高まりと、その中で備後の畳が一段と高い価値を認められていたことを示している。
室町期には畿内地域でも商品として流通していたとみられる。文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』によれば、沼隈郡の鞆船が350枚、尾道船が200枚以上、備中の連島船が500枚の「筵」を兵庫に運んでいる。
備後表、上々に青目なり
16世紀中頃以降になると、備後表は畳表としてのブランドを確立していた。『信長公記』では、贅を尽くした安土城の「御幸の御間」の説明の中で「御畳、備後面(おもて)、上々に青目なり」としている。備後表が当時の最高級品として認識されていたことがうかがえる。
天正十三年(1585)八月、大坂本願寺も備後国坊主衆と同惣御門徒中に対して畳表の調達を依頼。その後本願寺へ畳表300枚、本願寺坊官・下間頼康に50枚が贈られている。生産地である備後国沼隈郡には、当時、備後地方における真宗の拠点である光照寺があった。同寺を窓口にして、本願寺は備後表の調達をはかったものとみられる。
沼隈郡山南地方では、天文・弘治年間(1532〜57)に藺草を栽培して引通表が織られていたと伝えられている。備後国の藺草の栽培法については、江戸期の元禄十年(1697)に著された『農業全書』に詳しく記されている。
毛利輝元、安物をつかまされる
備後を支配した毛利氏も備後表を贈り物として用いている。毛利輝元や小早川隆景は豊臣秀吉に対し、それぞれ1000帖と500帖の畳を贈っている。そのような中で、尾道の商人・泉屋一相は16世紀末ごろに毛利輝元から備後表の調達を命じられた。
しかし、泉屋は上方での販売用よりも質の劣る畳表を進上したらしく、輝元を激怒させている。備後表が畿内市場で高い需要があったことが分かるが、なによりも、大名への進上より販売上の利益を優先させる商人のしたたかさが垣間見えて興味深い。