戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

赤間硯 あかますずり

 長門国赤間関で作られた硯。長門国の名品として全国的に知られており、寛永二十一年(1645)刊行の俳諧論書『毛吹草』には長州名物として船木櫛、萩焼と並んで掲載がある。原石は赤間関周辺で採掘されていたが、江戸期になると厚狭郡の稲倉山や同郡内山郷の六田村、赤川村(いずれも現山陽小野田市)からも掘り出されるようになった。

赤間硯の職人

 元亀元年(1570)の「中国九州御祓賦帳」の長門国条には、下関すゝりや(硯屋)五郎左衛門殿が、天正十四年(1586)の同史料には、下関の大森神左衛門殿が出てくる。いずれも赤間硯の職人と考えられる。

 現在、「毛利輝元関係資料」(毛利博物館蔵)の中のひとつに毛利輝元所用と伝える硯箱があり、裏に「天下一 赤間関住大森土佐守 頼澄」の刻銘がある。「天下一」の称号を許された大森氏は江戸期においても赤間硯を代表する硯司として活躍している。

贈られる赤間

 文明十七年(1485)二月四日、堺の禅僧季弘大叔は、莪上主に「長門之産紫石硯一面」を遺贈している(『蔗軒日録』)。赤間硯は中国の名硯端渓硯に似て、紫色のものが多かったことから、この硯は赤間硯であると考えられる*1

 明応五年(1496)十月十三日、公家・三条西実隆は周防に下向していた龍翔院(三条公敦)から「紫石硯」を贈られ、「尤自愛也」と喜んでいる(『実隆公記』)。永正七年(1510)七月十日には守護大名大内氏の家臣・龍崎道輔が「硯紫二面」と「墨一廷」を持って実隆を訪ねてきている。これら三条西実隆が贈られた紫の硯も赤間硯の可能性が高いと考えられる。

朝鮮に献上される

 赤間硯とみられる紫の硯は、大内氏の朝鮮への献上品にもみられる。太宗十七年(1417)八月、大内盛見が朝鮮に遣使し、土宜(特産品)を献上したが、国王太宗はこれを臣下たちに下賜した(「太宗実録」)。そのなかに「紫硯」が含まれている。成宗の代では大内政弘がたびたび遣使しており、その献上品のなかに、成宗十四年(1483)の「紫石紋硯十枚」をはじめ、「紫石紋研十枚」(成宗十六年)、「黒石硯十一枚」(成宗十八年)、「紫石硯一十枚」(成宗二十一年)がみえる(「成宗実録」)。

 また高麗末期(14世紀)の文人李崇仁は「日本有天佑上人、饋赤城石硯、以詩為謝」(日本の有天佑上人が赤城紫石硯を贈ったので、詩を作って感謝した)と題する漢詩を残している(「陶陰集」)。「赤城紫石硯」の「赤城」は赤間関の異称であり、これも赤間硯であると考えられる。

参考文献

  • 吉積久年 「赤間硯の史料」(『山口県文書館研究紀要』第40号) 2013
  • 山口県編 『山口県史通史編中世』 2012

*1:赤間硯の原石調達に関わる寛保元年(1741)の史料にも、「紫石」のことがみえる。