戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大麦水 おおむぎすい

 大麦を水で煮詰めて作られた飲料。イスラーム世界においては解熱の薬効があるとされ、庶民にも広く飲用が普及した。14世紀には蜂蜜や香辛料を加えた甘味飲料として、カイロなどの都市で製造・販売されていた。

ローマ帝国時代の病人食

 アッバース朝では9世紀からイスラーム医学理論に基づく食養生法が実践されていた。この医学は、古代ギリシャ医学理論、特に2世紀アレクサンドリアの医師ガレノスの理論を踏襲し発展させたものであった。ガレノスの提唱した医学理論は、あらゆる生物(人間・動物・植物)には「熱」・「冷」・「乾」・「湿」の四つの要因の組み合わせに由来する固有の「性質」があるという基本原理に基づいていた。そして「熱」・「冷」・「乾」・「湿」の四要素がバランスのとれた状態、すなわち中庸になれば、完全で理想的な健康状態が生まれるとされた。

 ガレノスは、大麦を「冷・乾」とし、「小麦より栄養価の低い」穀物であると評価。大麦には利尿・下剤・解熱の薬効がある一方で、「胃腸内にガスを生じさせる」という鼓腸(腹部膨隆)の有害作用があるとした。

 そして大麦食品として、大麦パン炒り大麦粉、そして大麦スープ(大麦水)の三つを取り上げ、特性を説明。大麦スープについては、「あらゆる人にとって害のない最適な滋養食品」として最も推奨した。薬効としては、その即効性のある解熱作用に注目し、「高熱に対して、(大麦スープは)拮抗力を持つ。消化吸収が早いので、すぐに効果を出す」と協調。この薬効は、水で煮る、すなわち加水調理の過程で「乾」から「湿」へと大麦の性質が変化した結果であると判断した。

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 その味について「病人にとって、美味で口当たり良いもの」としており、実際にガレノスの生きた時代には、大麦スープが病人食として広く利用されていた。当時の製法は「粉を短時間強火で煮る」というものだったが、ガレノスはこれでは栄養が体内に吸収されにくいとし、「充分に茹でて粒が膨らんだら、少量の酢と少量の塩を加え、長時間煮込む」方法を提示している。

イスラーム世界への継承

 約700年後以降のイスラーム世界の医学者も、ガレノスの見解と同様に、大麦水を薬品・滋養品とし、その製法を、分量・配合率を明記して定義した。最も古い製法は、最初のアラビア語医学百科事典『知恵の楽園』の著者で、アッバース朝第8代カリフ・ムウタシムの侍医を務めたアリー・イブン・サフル・ラッバン・アル・タバリーによるもので、以下のようなものであった。

水に1時間ほど浸け、大麦の分量1に対し、15倍の水を注ぎ、弱火で大麦の分量の3倍になるまで煮込む。のちに濾してきれいにする。

 その後の医学者、たとえばイランのアフワーズ出身の医学者マジュースィーや、11世紀のバグダードの病院医師イブン・ジャズラも大麦水(大麦スープ)の製法を記述している*1。タバリーおよび彼らの記述から、総じてイスラーム世界の大麦水とは、大麦とその分量の15倍の水を弱火で煮込み、それを5分の1の量まで煮詰めたものと定義できるとされる。

 なお前述のイブン・ジャズラは、先達が滋養品とした大麦水は、ある体質・体調等では有害である、という見解も示し、以下のように述べている。

(大麦水に)粘液過剰の者がセロリとフェンネルを加えて摂ると、自身の「冷」の状態の内臓に有害となり、ガスを生む。その害は、砂糖で作ったバラ蜜によって防ぐ

 「体を冷やす」とされた大麦食品は、夏の旅行食や、食事制限下の代用食としても医学者らに推奨された。10世紀のホラーサーン(イラン東部)地域出身で地理学者でもある医学者バルヒーは、専章「暑さが旅行者に与える害とそれへの警戒」において、「解熱食品類、たとえば炒り大麦粉、冷水、バラ砂糖ジャム、大麦水、粒大麦粥などを摂るように」と述べている。また12世紀のユダヤ教思想家で医学者のマイモニデスは、食事制限下の代用食として、粒大麦粥と大麦水の利用を指示している。

アッバース朝の宮廷料理

 10世紀半ばにワッラークが編纂したアッバース朝宮廷料理書『料理と食養生の書』の穀物リストには、大麦が存在しない。しかし第108章「病人のための穀物スープ」に、「イブン・マーサワイヒの書からの大麦水」として製法が記述されている。イブン・マーサワイヒは、アッバース朝第7代カリフ・マームーンら4人のカリフの侍医を務めたネストリウス派の医師であった*2。大麦は宮廷料理の食材としては、ほとんど利用されなかったが、大麦水のみは解熱の薬効があるために利用されたと推定されている。

 なおワッラークの料理書では、大麦水に小麦パン粉や蜂蜜を混ぜた非発酵飲料として「香辛料入りクライシュ家のフッカーウ」の製法も記述されている。製法は以下の通り。

50グラス分の大麦水、1ウーキーヤ(約30グラム)の黒コショウ、桂皮、甘松、丁子を各2ディルハム(1ディルハムは約6グラム)、2コのナツメグ、メース、黒カルダモン、クリ、長コショウを各2ダーナク(1ダーナクは約1グラム)、全て一緒にし、なめらかになるまですり潰したものを大麦水に加え、手で混ぜて、よく溶かし澄ます。2ダーナクの麝香粒と、1/3ラトル(約150グラム)のスライマーニー砂糖(堅白砂糖)を50個の各コップに入れ、それらをヘンルーダタラゴン、ミントで香りづける

 ただしワッラークは、この大麦製フッカーウを「神経に害を及ぼし頭痛を起こし、ガスを出し、利尿作用があり、過剰な熱を出す害多い」ものと定義している。

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滋養食としての普及

 13世紀以降、イスラーム世界では大麦利用に変化が現れ、大麦食品が日常の多様な状況で利用されるようになる。大麦利用に関する新たな見解は、13世紀から14世紀にかけて体系化され普及した「預言者の医学」という分野の書にみえる*3

 14世紀にシリアのダマスカスで活躍した法官イブン・カイイム・アル・ジャウズィーヤの『預言者の医学』では、大麦水について以下のように記されている。

イブン・マージャが以下のハディースアイーシャハディースとして伝えた。預言者の家の一人が体調不良になったとき、預言者は大麦のポタージュ状スープを作るよう命じた。そして彼らにスープを飲むように命じた。そして「それは心の悲嘆を繕い、病人の心を和らげる。それはあたかもあなた方が水で顔の汚れを取るように」と言った。和らげるという意味は、覆いをとり、取り除くという意味である。このスープは、煮た大麦水である。これは、炒り大麦粉より栄養価が高い。

 大麦水が、悲しみを和らげ、病人の精神を良好にするという見解は、それ以前の医学書にはみられない。

 15世紀の文人スユーティーの『預言者の医学』では、大麦水は、各種の病気や怪我の治癒に効果ありとされている。その利用法には、発熱による体力消耗や食欲不振などの病中や病後の回復の滋養食、胸膜炎や咳症状の緩和薬、狂犬による咬傷の治療食、水痘罹患時の養生食などがあった。製法も容易な大麦水が、日常の病気や怪我、体調不良時に飲む滋養品となっていたことがうかがえる。

都市の甘味飲料

 14世紀、イブン・ウワッフが記した「ヒスバの書」(市場監督官の行政マニュアル)によれば、エジプトのカイロでは、シャラープ*4(甘味飲料)屋により大麦水の製造と販売が行われていた。ウワッフは以下のように記録している。

大麦水は、暑い時期にのみ利用される。ゴミを取り、ふるいにかけた大麦粉を火にかける。冷やし、濾し、そこに蜂蜜や香辛料、香木類、ヘンルーダ(ミカン科ハーブの葉)を入れる。これは精神をよい状態にするものである。

 またマムルーク朝後期の14世紀に成立したエジプトの料理書『優れたる宝庫』には2種類のシャラープの製法がある。そのうち一つの名称は「ラマダーンの大麦水」であり、前述の市場の大麦水より多種類の香辛料と果汁類が加えられている。その製法は以下のように記される。

(水に浸して乾燥した大麦粉を小麦粉と一緒に)大鍋で煮る。冷えたら、二日間放置する。第三日目にシトロン、オレンジ、ヘンルーダ、ミントの葉をいれ、そこにレモン10個を半分にして(絞り)加え、塩を入れる。夕方に各飲用コップに注ぎ、緑のレモンを上に搾る。そして砂糖、ムスク、バラ水を入れる。

 夕方に注ぐとあることから、ラマダーン期間の日没後に飲用される自家製の大麦水であった可能性が高いとされる。1581年(天正九年)から3年間カイロに滞在したヴェネツィアの医師プロスペロ・アルピーニは「富裕層の家では、自家製のシャラープ(甘味飲料)を多種類常備されていた」と記録しており、その理由として市場品には偽品の香辛料類が混入されている恐れがあることを挙げている。

疫病に対する滋養飲料

 14世紀、都市ではイスラーム医学理論に基づく食養生法が実践されていた。疫病時、富裕層は「冷」と「乾」の性質をもつ食品や香辛料を摂取したが、これらは庶民には手の届かない高額品であった。そんな中、大麦水は、富裕層から庶民にまで入手できる解熱薬であり、滋養物であった。

 14世紀の歴史家マクリーズィーは、疫病が蔓延したダマスカスでの大麦鍋料理(煮た大麦水の類)の高騰を以下のように記録している。

ヒジュラ暦726年(西暦1326年)、以下の情報が届いた。ユーフラテス川の水が増量した。そこに雨が降った。汚れた空気と農作物の消滅がダマスカスとユーフラテス川までの一帯に起きた。そしてついに病人や死人もでた。
あるダマスカスの香辛商は毎日、病人の(内服)薬で400ディルハムを売り上げた。(スークの)大麦の鍋(煮た大麦水の類)は、30ディルハム以上に達した。吸い玉瀉血の施術者は、こめかみの瀉血と耳たぶの瀉血によって毎日400ディルハムを稼いだ。死者は病人より少なかった。

 エジプトでは、年間で病気が多発する時期が、晩秋から初冬であることはよく知られていた*5。前述の歴史家マクリーズィーも、ヒジュラ暦727年ムハッラム月(西暦1326年12月)のカイロの出来事として、原因不明の熱病が大流行し、香辛商と吸い玉瀉血の施術者が儲かったことを記録している。

 ヴェネツィアの医師アルピーニもまた、『エジプトの医術』に専章を設け、カイロで見聞した多数の解熱薬の製法や効能を詳述。アルピーニによれば、カイロでは「サウィーク(炒り大麦粉)」という名の大麦飲料水が滋養飲料として常飲されていたという。大麦飲料が16世紀においても、都市の嗜好飲料かつ熱冷まし飲料であったことがうかがえる。

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参考文献

  • 尾崎貴久子 「中世イスラーム世界の大麦と大麦食品」(『オリエント』58 2016)

『知恵の楽園』(Firdaws al-ḥikma) カタールデジタル図書館
パブリックドメイン

*1:12世紀の地理学者イドリースィーの本草書『植物の種類と効能集成』には、タバリーの製法がそのまま引用されている。

*2:マーサワイヒは『料理書』や『滋養品の害を払う書』を編纂したとされるが、現存確認されていない。

*3:預言者の医学」の編者は、医学に精通した法学者たちで、彼らはコーランハディースに出てくる薬品食品に着目し、その効能や治療法をイスラーム医学理論に基づき解説した。

*4:シャラープとはアラビア語で元来「飲み物」の意味であり、香辛料類やレモンなどの果汁類を入れた蜂蜜水や砂糖水を指す。病時には薬効をもつスパイス類を混ぜた薬用シロップとして、健康時には嗜好飲料として、都市民に親しまれた。1581年(天正九年)から3年間カイロに滞在したヴェネツィアの医師プロスペロ・アルピーニは「健康人や病人でも誰もがそれ(シャラープ、砂糖水に果汁や香辛料を混ぜた飲み物)を飲んでいる」と述べている。

*5:エジプトの著者不詳の歳時記は、11月頃から諸病が蔓延することを記録している。