戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ハリーサ Harisa

 肉と小麦粒を煮込んだ粥。中世のイスラーム世界において宮廷の宴会料理として料理書にみえる。またスーク(市場)でも常設店での出来合い料理として提供されており、都市民のごちそうとして親しまれた。元朝時代の中国にも伝播している。

宮廷の宴会料理

 7世紀のウマイヤ朝のカリフ・アル・ムアーウィアが、一人のユダヤ人にイスラーム以前からの調理法でハリーサを作るよう命じたという話がある。このことから、ハリーサはイスラーム以前からの料理であったと考えられている。

 ハリーサは、10世紀のアッバース朝期や15世紀のマムルーク朝期では宴会に供されていた。調理法も10世紀にアル・ワッラークが編纂したアッバース朝宮廷の料理書『料理と食養生の書』をはじめ、16世紀までのアラビア語による料理書の多くに掲載されている。

 なお『料理と食養生の書』では、9世紀の哲学者キンディーの『道具の書』からの引用として、料理に用いるべき鍋の種類を指定。ハリーサに最良なのは、内壁に錫メッキがされた銅の深鍋であるとしている。

都市の料理

 都市のスーク(市場)では、出来合いのハリーサが食べられるハッラースというハリーサ専門店があった。12世紀にアル・シャイザリが編纂したマシュリク地域*1のヒスバの書(市場監察官の手引書)*2によれば、材料である小麦粉、牛肉、羊肉の各分量が規定され、油はゴマ油かオリーブ油を使用することなどが義務づけられていた。

 10世紀の地理学者アル・ムカッダスィーは、ナツメヤシの初荷到来時のワースィトの町に、一時出店したハリーサ屋について以下のように記録している。

最初のナツメヤシを積んだ船を迎えるために、商人たちは、河岸から自分たちの店までの通りを布や飾りで飾り付ける。(中略)ハリーサ屋は、商人たちの店の二階に場所が与えられる(そこでハリーサを提供する)。そこに、絨毯、テーブル、ムッリー(小麦発酵調味料でハリーサに塩味とうまみを加える)、召使、水差し、たらい、ウシュナーン(石鹸代わりに使われる灰)が用意されている。もし一人の男が(食べ終えて)階下におりる時には、1dāniqを支払う。

 上記から、ナツメヤシの荷卸時には、商人相手にハリーサ屋が河岸に出店し、そこではレストランのように召使が接客し、手洗いの道具も常備されていたことが分かる。

 ハリーサはスーフィーイスラーム神秘主義者)たちの常食でもあった。ムカッダスィーは「わたしはスーフィーたちとハリーサを食べ、修道僧たちとサリード(パン粥)を、漁民たちとアシーダ(ミルク粥)を食べたと」と記録している。

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 肉入りハリーサは、都市民には、普段の食事よりごちそうであった。14世紀、カイロの影絵作家で詩人のイブン・ダーニヤールは、「普段の食事である野菜とチーズには嫌気がさした。脂たっぷりの肉入りハリーサが食べたい」と詠っている。

中国への伝播

 13世紀、元朝時代の中国にもハリーサは伝わっていた。撰者未詳の家庭百科全書『居家必用事類』では「哈里撒」と漢字音訳され、回回食品の一つに挙げられている。「回回」はムスリムウイグルを指す呼称であった*3。作り方は以下の通り。

小麦をボウルに入れ、たたいて皮をむく。牛肉を4、5斤、あるいは羊肉を細かく切り、一緒にどろどろになるまで煮る。碗に入れてひろげ、羊尾油または羊頭油をそそぐ。黄焼餅を添える。松の実を加えるのも良い。

参考文献

  • 尾崎貴久子 「元代の日用類書『居家必用事類』にみえる回回食品」(『東洋学報』88 2006)
  • 尾崎貴久子 「中世イスラームの鍋」(『イスラーム地域研究ジャーナル』Vol.4 2012)
  • 撰者未詳 『居家必用事類全集』 出雲寺和泉掾刊行 1673

居家必用事類全集10集20卷 [13] 回回食品 哈里撒
国立国会図書館デジタルコレクション

*1:エジプト以東の東アラブ地域を指す

*2:市場監督の行政マニュアル。内容には市場商品の品質管理の記録がある。

*3:元朝時代の中国では、「回回」はムスリムの呼称であり、他方ウイグルは「回鶻」あるいは音訳転写されて「畏吾兒」と称されることが定着したという。しかし両者は厳密に区別されていたわけではなく、時に「回回」と「回鶻」が混同されて、ムスリムウイグル両者を「回回」と呼ぶ場合があった。『居家必用事類』ではウイグル料理の河西肺も回回食品として挙げていることから、ムスリムウイグルを区別せずに「回回」と呼称していることが分かる。