戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

3.人物-02.中国地方

光清 左近将監 みつきよ さこんしょうげん

竹原小早川家臣。京都での上番を担当した一人。

木谷 景忠 きだに かげただ

小早川家臣。仮名は孫四郎。竹原小早川氏の庶家・木谷氏の出身で、 隆景に仕えた。

木谷 備中守 きだに びっちゅうのかみ

竹原小早川家臣。東西条鏡山城陥落の際、城将・蔵田房信の妻子を預かったという。

木谷 景忠 きだに かげただ

竹原小早川家臣。小早川弘平に仕え、家中でも高い位置にあったとみられる。

木谷 景諦 きだに かげあき

竹原小早川氏の一族。官途名は備中守。三津村を獲得した 竹原小早川氏によって木谷(現在の広島県東広島市安芸津町木谷)支配を任された。

内海 定光 うちのうみ さだみつ

大内氏被官。内海衆。仮名は三郎九郎。

多賀谷 兵部少輔 たがや ひょうぶのしょう

海賊衆・蒲刈多賀谷氏の有力部将。大永七年(1527)三月、厳島を襲撃した。

多賀谷 武重 たがや たけしげ

大内家臣。仮名は孫二郎。宮内少輔。春貞の父。大内氏のもとで警固衆を率いて各地を転戦した。主家滅亡後は毛利氏に仕えた。

能美 嘉次 のうみ よしつぐ

毛利家臣。仮名は与三。官途名は与左衛門。宣仍の嫡子。弟に時経。元古の父。

能美 宣仍 のうみ のぶより

毛利家臣。幼名は亀千代丸。仮名は弥四郎。官途名は内蔵丞、後に筑後守。宣通の子。嘉次、時経らの父。

能美 宣通 のうみ のぶみち

毛利家臣。内蔵丞。宣仍の父。

能美 重友 のうみ しげとも

大内家臣。仮名は又三郎。官途名は式部丞、後に佐渡守。主家滅亡後は毛利氏に仕えた。

能美 兵庫助 のうみ ひょうごのすけ

竹原小早川家臣。安芸国能美島を本貫とする能美氏の庶流とみられる。

能美 弾正忠 のうみ だんじょうのじょう

大内氏被官。大永年間、大内方警固衆の一翼として安芸武田氏らと戦った。

黒瀬 右京進 くろせ うきょうのじょう

大内家臣。大永三年(1523)、安芸国東西条鏡山城の城番の一人。安芸国賀茂郡黒瀬村を名字の地とする黒瀬氏の一族か。

能美 左馬丞 のうみ さまのじょう

大内家臣。安芸国東西条鏡山城の城番の一人。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身か。

能美 弘助 のうみ ひろすけ

大内家臣。土佐守。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。大内氏の分国支配に吏僚として関わった。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身とみられる。

能美 貞勝 のうみ さだかつ

大内家臣。官途名は豊後守。周防国柳井に所領があった。安芸国能美島(現在の広島県江田島市)を本貫とする能美氏の庶流か。

能美 房次 のうみ ふさつぐ

大内氏被官。万菊丸の父。仲次の子か。実名の「房」は大内氏重臣・陶興房または陶隆房からの偏諱とみられる。後に世次と改名した。防芸引分で大内方に付き、毛利氏に敗れた。

能美 仲次 のうみ なかつぐ

大内氏被官。能美島に本拠を持つ警固衆。仮名は四郎。官途名は縫殿允。房次の父か。大永年間の安芸争乱では、大内方警固衆として活躍。後に豊後遠征でも功績を挙げた。

海越 土佐守 かいごし とさのかみ

安芸国倉橋島海越(現在の広島県呉市倉橋町海越地区)の武士。

多賀谷 頼定 たがや よりさだ

倉橋多賀谷氏の一族。右馬助。実名の「頼」は、当主の多賀谷興頼からの偏諱か。

多賀谷 実時 たがや さねとき

倉橋多賀谷氏の一族。民部丞。文明十二年(1480)六月二日に再興された桂浜神社(倉橋本浦)のおよび尾立八剱神社の棟札に、その名がみえる。

多賀谷 興頼 たがや おきより

倉橋多賀谷氏の当主。兵部少輔。興基の父。倉橋の春日神社の棟札によると、天文二年(1533)に多賀谷興頼が同社本殿を造立したとされる。

多賀谷 興重 たがや おきしげ

倉橋多賀谷氏の当主。興頼の父。

多賀谷 弘重 たがや ひろしげ

倉橋多賀谷氏の当主。官途名は筑前守か。文明十二年(1480)六月二日の紀年をもつ桂浜神社の棟札にその名がみえる。

警固屋 けごや

呉衆・警固屋氏の一族。実名や官途名は不明。大内氏重臣・内藤隆世とともに毛利氏と戦った。

檜垣 肥前守 ひがき ひぜんのかみ

呉衆・檜垣氏の当主。現在の呉市阿賀にあった龍王山城の城主として、「檜垣肥前」の名が伝えられている。

警固屋 忠秀 けごや ただひで

呉衆・警固屋氏の当主。掃部助。文明十年(1478)十月十三日、大内政弘から筑前国穂波郡と嘉摩郡に所領を得た(『正任記』)。

山本 賢勝 やまもと かたかつ

呉衆・山本氏の当主。仮名は四郎。官途名は左近将監。山本房勝の子。実名の「賢」は、陶晴賢からの偏諱か。呉衆を率いて毛利氏と戦った。