3.人物-02.中国地方
呉衆・山本氏の当主。仮名は四郎。官途名は左近将監。山本房勝の子。実名の「賢」は、陶晴賢からの偏諱か。呉衆を率いて毛利氏と戦った。
呉衆・山本氏の当主。官途名は弾正忠、後に玄蕃允、甲斐守。賢勝の父。実名の「房」は、結びつきの強い大内氏重臣・陶興房からの偏諱とみられる。
呉衆・山本氏の祖。南北朝期、北朝方伊予守護・仁木義尹の属し、河野通直ら伊予南朝方と戦った。戦国期の山本氏当主・山本賢勝も、「山本四郎」と呼ばれている。
安芸国瀬戸の住人。小早川家臣か。官途名は隼人佐。対岸の警固屋にも拠点を持ち、大きな経済力を有した。
毛利氏家臣。後に吉川氏家臣となった。元は安芸国矢野の国人・野間氏の旧臣であったともいわれる。
毛利家臣。仮名は新三郎。官途名は右衛門尉。後に越後守の受領名を得る。父の新屋親信は、元は武田姓だったが在地名をとって「新屋」に改めたという。
安芸国矢野の国人領主・野間氏の家臣。後に毛利氏に仕えた。
安芸国矢野の国人領主・野間氏の一族か。大内氏に属し、安芸東西条に知行を得ていた。
安芸国矢野の国人領主・野間氏の一族か。大内氏に属し、安芸東西条に知行を得ていた。「吉浦野間」とも呼ばれており、安芸国安南郡吉浦(現在の呉市吉浦)が本拠地なのかもしれない。
安芸国矢野の国人領主・野間氏の当主。仮名は彦太郎。近世初期成立の『陰徳太平記』では、官途名を刑部大輔とする。正室は熊谷信直の娘。
安芸国矢野の国人領主・野間氏の当主。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。竹原小早川氏と波多見島領有をめぐって争った。
安芸国矢野の国人領主・野間氏の当主。竹原小早川氏に波多見島を譲った。
安芸武田家臣。安芸白井氏の一族か。永正十四年(1517)十月二十二日、有田合戦において討ち死にした。
白井備中守の家臣。新左衛門。田所左衛門尉胤近の弟。府中城において大内軍と戦った。出自は在庁官人から豪族化した田所氏とみられる
安芸白井氏の一族。備後守。天文十二年(1543)とみられる年の九月十六日、厳島社家・野坂房顕宛の書状に房胤、隆胤とともに連署している(「厳島野坂文書」)。
安芸白井氏当主。仮名は弥四郎。官途名は縫殿助。膳胤の子。妻は熊谷元直の娘。周防の戦国大名大内氏に属し、その警固衆として活躍した。
安芸白井氏当主。縫殿助。光胤の子。房胤の父。武田氏被官だったが、後に大内方に寝返った。
安芸白井氏当主。武田氏被官。官途名は縫殿助、後に越中守。親胤の子。膳胤の父。仁保島を拠点とし、武田方の最前線として大内方と戦った。
安芸白井氏当主。加賀守。光胤の父。武田氏の被官。近世の「萩藩閥閲録」に記載された白井氏家譜に挙げられた歴代当主の内、史料上で確認できる最も古い人物。
安芸府中城城主。安芸武田氏の被官。大永年間、府中城に籠城して大内軍の北上を阻止し、武田方陣営の防衛成功に大きく貢献した。
安芸白井氏当主。 弾正大夫。武田氏被官。近世の萩藩閥閲録に記載された白井氏家譜には、その名がみえない。
安芸武田氏の家臣。天文十年(1541)五月、金山城落城の際に討ち死にした。
安芸国温品の国人。武田氏の被官。官途名は兵庫助、後に大蔵少輔。明応八年(1499)、主家に叛いた。
安芸武田氏家臣。播磨守。 己斐城主。武田氏の譜代で戸坂城を居城とする戸坂氏の出身か。長禄元年(1457)に己斐城に拠って大内方と戦った。
安芸武田氏の当主。佐東金山城主。元繁の子。永正十四年(1517)十月、父の武田元繁が敗死。これにより光和は武田氏の家督を継いだ。
安芸武田氏の当主。佐東金山城主。官途名は刑部少輔。元綱の子。光和の父。当初は若狭武田氏の安芸国における代官的地位にあった。
厳島神領衆。「大野要害」(大野河内城?)の城主。大永年間、大野に侵攻してきた大内軍に内通し、後詰に来た友田興藤、武田光和らを敗走させた。
厳島神領衆。官途名は和泉守。厳島神主家滅亡後、廿日市・桜尾城督のもとで佐西郡の支配にあたった。
厳島神領衆。新里隆溢の父とみられる。安芸国佐西郡坪井の領主。厳島の「役人」。
厳島神主。仮名は四郎。官途名は掃部頭。友田興藤の弟。厳島神主家は広就の代で滅亡した。