3.人物-02.中国地方
竹原小早川氏の一族。官途名は備中守。三津村を獲得した 竹原小早川氏によって木谷(現在の広島県東広島市安芸津町木谷)支配を任された。
大内氏被官。内海衆((内海(現在の広島県呉市安浦町内海)を本拠とした武士団。))。仮名は三郎九郎。文明十年(1478)十月、九州での戦功により所領を得た。
海賊衆・蒲刈多賀谷氏の有力部将。大永七年(1527)三月、厳島を襲撃した。
大内家臣。仮名は孫二郎。宮内少輔。春貞の父。大内氏のもとで警固衆を率いて各地を転戦した。主家滅亡後は毛利氏に仕えた。
毛利家臣。仮名は与三。官途名は与左衛門。宣仍の嫡子。弟に時経。元古の父。
毛利家臣。幼名は亀千代丸。仮名は弥四郎。官途名は内蔵丞、後に筑後守。宣通の子。嘉次、時経らの父。
毛利家臣。内蔵丞。宣仍の父。
大内家臣。仮名は又三郎。官途名は式部丞、後に佐渡守。主家滅亡後は毛利氏に仕えた。
竹原小早川家臣。安芸国能美島を本貫とする能美氏の庶流とみられる。
大内氏被官。大永年間、大内方警固衆の一翼として安芸武田氏らと戦った。
大内家臣。大永三年(1523)、安芸国東西条鏡山城の城番の一人。安芸国賀茂郡黒瀬村を名字の地とする黒瀬氏の一族か。
大内家臣。安芸国東西条鏡山城の城番の一人。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身か。
大内家臣。土佐守。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。大内氏の分国支配に吏僚として関わった。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身とみられる。
大内家臣。官途名は豊後守。周防国柳井に所領があった。安芸国能美島(現在の広島県江田島市)を本貫とする能美氏の庶流か。
大内氏被官。万菊丸の父。仲次の子か。実名の「房」は大内氏重臣・陶興房または陶隆房からの偏諱とみられる。後に世次と改名した。防芸引分で大内方に付き、毛利氏に敗れた。
大内氏被官。能美島に本拠を持つ警固衆。仮名は四郎。官途名は縫殿允。房次の父か。大永年間の安芸争乱では、大内方警固衆として活躍。後に豊後遠征でも功績を挙げた。
安芸国倉橋島海越(現在の広島県呉市倉橋町海越地区)の武士。
倉橋多賀谷氏の一族。右馬助。実名の「頼」は、当主の多賀谷興頼からの偏諱か。
倉橋多賀谷氏の一族。民部丞。文明十二年(1480)六月二日に再興された桂浜神社(倉橋本浦)のおよび尾立八剱神社の棟札に、その名がみえる。
倉橋多賀谷氏の当主。兵部少輔。興基の父。倉橋の春日神社の棟札によると、天文二年(1533)に多賀谷興頼が同社本殿を造立したとされる。
倉橋多賀谷氏の当主。興頼の父。
倉橋多賀谷氏の当主。官途名は筑前守か。文明十二年(1480)六月二日の紀年をもつ桂浜神社の棟札にその名がみえる。
呉衆・檜垣氏の当主またはその一族。現在の呉市阿賀にあった龍王山城の城主として、「檜垣肥前」の名が伝えられている(『芸藩通誌』)。
安芸国安南郡警固屋を本拠とした警固屋氏の当主((当主の一族の可能性もある))。掃部助。文明十年(1478)十月十三日、大内政弘から筑前国穂波郡と嘉摩郡に所領を得た(『正任記』)。
呉衆・山本氏の当主。仮名は四郎。官途名は左近将監。山本房勝の子。実名の「賢」は、陶晴賢からの偏諱か。呉衆を率いて毛利氏と戦った。
呉衆・山本氏の当主。官途名は弾正忠、後に玄蕃允、甲斐守。賢勝の父。実名の「房」は、結びつきの強い大内氏重臣・陶興房からの偏諱とみられる。
呉衆・山本氏の祖。南北朝期、北朝方伊予守護・仁木義尹の属し、河野通直ら伊予南朝方と戦った。戦国期の山本氏当主・山本賢勝も、「山本四郎」と呼ばれている。
安芸国瀬戸の住人。小早川家臣か。官途名は隼人佐。対岸の警固屋にも拠点を持ち、大きな経済力を有した。
毛利氏家臣。後に吉川氏家臣となった。元は安芸国矢野の国人・野間氏の旧臣であったともいわれる。
毛利家臣。仮名は新三郎。官途名は右衛門尉。後に越後守の受領名を得る。父の新屋親信は、元は武田姓だったが在地名をとって「新屋」に改めたという。