戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

野間 公光 のま きみみつ

 安芸国矢野の国人領主・野間氏の当主。竹原小早川氏に波多見島を譲った。

竹原小早川氏に波多見島を譲渡

 応永二十八年(1421)一月、「公光」という人物が、安摩荘波多見島(倉橋島北部)を「実古」という女性の「御後家御庵」料(一期分、一代限り分)として竹原小早川弘景に譲渡している。この「公光」が、野間公光であるとみられる。

 野間氏は南北朝期に南朝方に追われて安芸国に北上してきた伊予衆の一派と考えられており、このとき南朝方勢力が去った波多見島にも進出していたと思われる。

 竹原小早川氏はこの波多見島の所領について、あくまで「一期分」として継承していた。しかし永享四年(1432)十二月、「陽因」という人物が弘景の子・小早川盛景に対して、援助の謝礼として波多見島を一期分ではなく永代譲渡するとともに、「越智にて候(そうろう)人たち」(伊予衆)による返還請求権を放棄する旨の去文を差し出している。

 「陽因」は、文書の内容から野間公光と同一人物と考えられる。公光がいかに竹原小早川氏との同盟関係を重視していたかが分かる。また波多見島が、野間氏を含む多くの伊予衆の思惑がからむ地域だったこともうかがえる。

沼田小早川領で討死

 康正三年(1457)五月、大内勢が沼田小早川領に侵攻した際、公光も大内方として出陣する。この戦いで、公光が毛利煕元に討ち取られたことが武田国信の書状にみえる。

 公光の戦死後、野間氏と竹原小早川氏の同盟関係は破綻。両氏は波多見島の領有権をめぐって長期の紛争状態へと突入し、この問題が野間氏の命運を縛っていくことになる。

参考文献

  • 下向井龍彦 「第4節 竹原小早川氏と矢野野間氏の抗争」 (『音戸町誌』 2005)