2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧
太平洋に面する房総半島東岸に位置する港町。戦国期、国人・勝浦正木氏の本拠となり、また廻船の発着する海運の拠点でもあった。
太平洋に面する房総半島東岸に位置する港町。戦国期、国人・勝浦正木氏の本拠となり、また廻船の発着する海運の拠点でもあった。
上野国西部の交通上の要衝。現在の群馬県高崎市倉賀野町。近世では烏川の最も上流の河岸が存在し、中山道の宿場でもあったことから、町場が形成されて繁栄した。町場の形成は中世に遡るといわれる。
内海(現・東京湾)への入口である浦賀水道の東側、染川河口部の鶴峰八幡宮門前に位置した港町。上総国西部の要衝・佐貫城の城下港であり、同時に対岸の三浦半島への渡航地でもあった。
内海(現・東京湾)に突出した富津崎先端部(現・富津元州地区)の港町。古戸とも呼ばれた。六浦など対岸地域への渡航地として、内海交通の一端を担って栄えた。
下総国との国境付近、飯香岡八幡宮の門前に位置した港町。内海(現・東京湾)交通、および陸上交通の要衝として宿場、市場などと一体となって栄えた。
江戸湾の最奥部、目黒川(品川)河口部に位置した港町。中世、関東屈指の要港として江戸湾水運のみならず伊勢、紀伊方面など遠隔地との海運の中心を担って繁栄した。
内海(現・東京湾)西岸、帷子川の河口に開かれた港町。中世後期、品河とならぶ内海の主要港として栄えた。
内海(現・東京湾)に向かう天然の良港・平潟湾に面する港町。仁治元年(1240)に朝比奈切通が開削されて以後、関東の中心・鎌倉の外港を担って栄えた。
三浦半島東岸の入江に臨む港町。内海(現・東京湾)水運の要港であり、戦国期、北条氏の水軍基地となった。
戦国大名・北条氏の本拠・小田原城の城下町。上方と関東を結ぶ幹線道路である東海道が、甲州道と分岐する要衝に位置する。
内陸部からの河川が流れ込んでいた中世の岩船潟の入口に位置した港町。周辺物資の集散地であるとともに、潟を停泊地として日本海水運にもつながっていた。
越後国の大水系である阿賀野川・信濃川の河口部に位置する新興の港町。戦国後期以降、ともに「三ヶ津」と称された蒲原や沼垂をしのぐ繁栄をみせた。
越後国の大水系である阿賀野川・信濃川の合流地の東側に位置した港町。両川の河口が控える水上交通の要の位置にあり、中越・下越はもとより信濃・会津にまでつながる人と物資の集散地として栄えた。
佐渡国南岸の船の着岸に便利な砂州上に形成された港町。越佐海峡の対岸にある佐渡渡海の基点・寺泊との最短距離にあることから、佐渡の国津として同国の海の玄関口であった。
佐渡国西部、真野湾北岸の港町。戦国期に開発されたと伝えられる鶴子銀山の外港として急速に発展し、日本海海運の要港となった。
越後国中部、柏崎から海岸沿いを北に延びる街道沿いに位置した港町。中世、街道の要衝として、また対岸の佐渡への渡航地、日本海航路の要港として栄えたとみられる。
越後国中部、信濃川支流の魚野川と破間川の合流点付近に位置した市場町。陸上交通と河川水運の要衝。魚沼郡で生産され、全国に流通した青苧や越後布の流通拠点としても栄えた。
越後国中部、信濃川支流の魚野川と破間川の合流点付近に位置した市場町。陸上交通と河川水運の要衝。魚沼郡で生産され、全国に流通した青苧や越後布の流通拠点としても栄えた。
越後国中部、信濃川の上流沿いに位置した市場町。越後府内から柏崎などを経て、上野国へ至る越後-関東間の主要街道の宿場であった。同時に魚沼郡で生産され、全国に流通した青苧や越後布の流通拠点としても栄えた。
越後中部の鵜川、鯖石川河口部に位置する港町。中世、日本海航路の要港として、また越後西部と南北魚沼郡、上野国を結ぶ街道の要衝として海陸の結節点となって繁栄した。
越後国頚城郡、関川の河口部に位置する港町。中世、関川流域の頚城郡や越後国府(府内)の港として、また東日本海海運の東西を結節する要港として多くの船が往来して栄えた。
越後国頚城郡、関川の河口部に位置する港町。中世、関川流域の頚城郡や越後国府(府内)の港として、また東日本海海運の東西を結節する要港として多くの船が往来して栄えた。
中世、上越の中心都市。守護所が置かれる政治都市として、また経済都市としても栄えた。要港・直江津に隣接する。下越方面へ延びる北陸道、および信濃方面へ延びる善光寺街道の基点でもあり、海陸交通の要衝にあった。
佐渡国において採取・加工された甘海苔。中世には佐渡を代表する物産として珍重された。
芋(からむし)から繊維を取り出し、乾燥させて束とした中間製品。本項で取り上げるのは越後国の魚沼郡・頚城郡を中心とした地域で生産されたもの。この越後産青苧からの紡糸により、越後布などの芋麻布が織られた。
能登国七尾北湾の要港・中居で生産された鉄釜。
戦国期、輪島で生産された一種のお菓子。京都にも「輪島索麺」の名で知られた。索麺は、小麦粉を塩水でこね、油で細く引き伸ばして線状にし、日光に乾燥させて作るもので、中世、禅僧の点心(おやつ)用や酒の肴として嗜好された。
能登半島の北端部に位置する港町。中世、日本海航路の要港として繁栄した。戦国期に成立した『廻船式目』に「三津七湊」の一つとして挙げられる。全国的にも知られた港町であった。
能登半島の七尾北湾の深い入江に臨む港町。中世、能登釜として知られる鉄釜をはじめとする鋳物の生産と、積み出しで栄えた。