越後中部の鵜川、鯖石川河口部に位置する港町。中世、日本海航路の要港として、また越後西部と南北魚沼郡、上野国を結ぶ街道の要衝として海陸の結節点となって繁栄した。
柏崎の繁栄
禅僧・万里集九は、長享二年(1488)十月に柏崎を訪れている。その著書『梅花無尽蔵』の中で、「市場之面三千余、其他深巷凡五六千戸」とその繁栄ぶりを記している。
柏崎に集まる商品
明応三年(1494)、越後守護・上杉氏は、柏崎の代官的立場にあった国人・毛利重広に制札を発給した。ここには、柏崎に出入りする物品への賦課が示されている。このうち、「からむし」(青苧)、「布こ」(麻織物)、「ミわた」(身綿)、「かミ」、「くろかね」(鉄)が一駄20文という最も高い賦課をかけられている。これらが流通上で、重要な物品とであったことがわかる。
青苧の流通
青苧は、魚沼郡から堀之内や小千谷、蔵王堂などを経由して柏崎に運ばれ、さらに「越後船」などで若狭国・小浜に海路輸送された。永享二年(1430)、京で「越後国柏崎住民道秀入道」の遺した家1宇と、芋10駄をめぐる石清水八幡宮神人同士の裁判が起こっている(『御前落居日記』)。柏崎の商人が、京での青苧販売を行っていたことも分かる。
上杉輝虎の政策
このように、柏崎は越後経済の中枢の一つであった。大名・上杉氏も、その掌握に腐心している。永禄七年(1564)、上杉輝虎は柏崎町中に宛てて制札を出した。柏崎へ出入りする商品への新規賦課を禁じるとともに、青苧流通への賦課、町人の往還への規定を示している。柏崎の保護と掌握を、同時に進める意図があったといわれる。
関連人物
関連交易品
参考文献
- 永原慶二 『戦国期の政治経済構造』 岩波書店 1997