越後国の大水系である阿賀野川・信濃川の合流地の東側に位置した港町。両川の河口が控える水上交通の要の位置にあり、中越・下越はもとより信濃・会津にまでつながる人と物資の集散地として栄えた。
国津
延長五年(927)成立の「延喜式」には、「蒲原津」が越後国の「国津」と記されている。南北朝には、越後国における南朝方最大の拠点となり、北朝方の攻撃を幾度も受けた。蒲原が戦略上の要衝であったことがうかがえる。
謡曲「身売」にみる蒲原
蒲原の港町としての繁栄は、室町末期の謡曲「身売」からうかがうことができる。この謡曲に登場する船頭は、「はし船」を下ろして上陸するほど大きな「奥州船」を率いて蒲原津に来て「よろずの商い」をする人物であった。また津には多くの「類船」が、停泊していたことも描写されている。
謡曲の話ではあるが、当時の状況を反映して作られたとものと推測される。他国からも多くの船が集まる蒲原の繁栄を知ることが出来る。
戦国期の蒲原
戦国期、蒲原の秤商人が大坂の本願寺に向けて、志の銭を送っている。日本海の海運と繋がっていたことが分かる。また戦国大名・上杉氏も、蒲原の流通を重視していた。天文二十年(1551)、大串某を三ヶ津(蒲原、新潟、沼垂)の横目代官に任じて、津からの上がり物(税)の徴収を命じている。
ただし、この時期の蒲原は新潟、沼垂の台頭で相対的に地位を低下させていたとみられる。戦国末期以降、蒲原は史料上から姿を消す。
参考文献
- 『新潟市史 通史編』 1995