戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

浦賀 うらが

 三浦半島東岸の入江に臨む港町。内海(現・東京湾)水運の要港であり、戦国期、北条氏警固衆の拠点となった。

三浦半島の港町

 文明十八年(1486)秋、浦賀を訪れた准后道興は「昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふとき。金沢。榎戸。浦河とて三の湊となりけるとかや」と『廻国雑記』に記しいる。当時、浦賀三浦半島の代表的な港であったことが分かる。

北条方海賊衆の拠点

 戦国期、『北条氏所領役帳』には、愛洲兵部少輔が「浦賀定海賊」と記されている。当時、浦賀は北条方警固衆の拠点であった。

 永禄三年(1560)七月、北条氏は、芝浦の代官と百姓に対し、浦賀において愛洲、山本、近藤の三氏に毎月、船方番銭を納めることを命じている。浦賀に内海沿岸部から船方、もしくはその代銭が集められていたことがわかる。

 また当時、北条氏と敵対する里見氏の海賊衆による襲撃が頻発していた。北条方の海賊衆は、これに対して迎撃や侵攻をたびたび行っている。浦賀はその最前線基地として位置づけられていた。

造船基地

 永禄十年(1567)七月、北条氏は緊急のこととして伝馬をしたて、金沢、神奈河青木の鍛冶や、六浦の番匠を浦賀に召し出している。浦賀の水軍基地としての性格から、この召還は軍船の修造に関することと推定される。

 浦賀が内海沿岸における、北条氏の中心的な造船基地であったことがうかがえる。浦賀の対岸である上総国天羽郡は材木の産地であり、資材調達の便も良かったものと思われる。

参考文献