佐渡国南岸の船の着岸に便利な砂州上に形成された港町。越佐海峡の対岸にある佐渡渡海の基点・寺泊との最短距離にあることから、佐渡の国津として同国の海の玄関口であった。
佐渡の玄関口
奈良・平安期の公式ルートでは、越後の寺泊から海路で松ヶ崎に渡り、松ヶ崎から三川、雑太を経て佐渡国府へ向かうことが定められていた。
文永八年(1271)、佐渡に流罪になった日蓮も、寺泊を船出して松ヶ崎に着いている。また赦免されて佐渡を発つ際も、松ヶ崎から乗船している。
寺泊と松ヶ崎間の航路は、鎌倉期においても幕府や朝廷の公式な越佐間航路として利用されていた。松ヶ崎には、佐渡と越後を往来する人や物が行き交ったと思われる。
畿内から佐渡へ向かう航路
室町期の永享六年(1434)、世阿弥は若狭の小浜から順風を待って船出し、松ヶ崎の隣の多田に着いている(『金島書』)。『太平記』では、日野資朝の子・阿新丸が、佐渡に流された父に会うために越前敦賀から「商人船」に乗って佐渡に渡るというくだりがある。世阿弥を乗せた船も、小浜や敦賀と松ヶ崎、多田を結ぶ廻船航路を利用して、佐渡に向かったものとみられる。
幸若舞曲の中の松ヶ崎
同じ室町期に成立した幸若舞曲の『信田』では、信夫太郎・次郎兄弟が、都から奥州への帰路で越後の直江津に一泊した際、宿の主人によって佐渡の松崎(松ヶ崎)の兵衛に売られ、塩木を運ぶ仕事をさせられてしまう。松ヶ崎の商人が、各地で活動していたこともうかがえる。