戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

倉賀野 くらがの

 上野国西部の交通上の要衝。現在の群馬県高崎市倉賀野町。近世では烏川の最も上流の河岸が存在し、中山道の宿場でもあったことから、町場が形成されて繁栄した。町場の形成は中世に遡るといわれる。

地域支配の拠点

 文明九年(1477)三月、足利成氏と敵対していた上野守護・上杉顕定は、倉賀野へ陣を移す動きをみせる。顕定は成氏との戦いにおいて五十子に陣を築いていたが、同陣は文明八年(1476)末の長尾景春の攻撃で崩壊していた。倉賀野への移陣は、ここに上杉氏の拠点が形成されていたためとみられる。また在地領主である倉賀野氏は、上杉氏の被官でもあった。

 天文二十一年に上杉憲政が越後に没落すると、上野国には北条氏や武田氏が進出。倉賀野は両氏のもとでも、地域支配の拠点として機能した。

 永禄三年(1560)、長尾景虎の関東進出に際して、北条氏は大戸*1の領主・浦野氏に「証人」(人質)を倉賀野まで差し出すよう要請している(新編会津風土記 浦野文書)。上野国の武士からの人質を、倉賀野に集めようとしていたことがうかがえる。

 武田氏の治下においても、天正七年(1579)頃の文書に「倉賀野城米早速可相移之事」とある。倉賀野に、武田氏の兵糧などが蓄えられていたことが分かる。

伝馬宿

 天正十年(1582)閏十二月、北条氏から「倉賀野町人中」に対して伝馬掟書が出されている。天正十三年(1585)閏八月の北条氏邦判物でも、伝馬の置かれた宿として、笛木、和田、板鼻、安中、松井田、坂本などとともに倉賀野が挙げられている。

 和田、板鼻、安中では、伝馬の担い手が「町人衆中」とされているが、一方で倉賀野は「あはち代ほその(淡路代細野)」とある。すなわち倉賀野宿での伝馬は、同地を拠点とする有力国人・倉賀野淡路守家吉に任されており、家吉は細野氏を代官としていた。

倉賀野の町人衆

 高野山清浄心院に残された戦国・近世初期の「上野日月供名簿」には、倉賀野の住人の名も記されている。天正期では、倉賀野家吉の関連が突出している。さらに天正十三年に供養を依頼した旦那に、細野佐渡守という人物がみえる。家吉の代官であった細野氏当人か、その近親者とみられる。細野佐渡守は、同人夫婦と家中の為と、合計二本の供養を立てている。

 「上野日月供名簿」には、細野氏以外にも「モロホシ(諸星)土佐守」、「岡田加賀守」、「川又」、「◻︎◻︎石見守」、「ウスタ殿」、「中嶋豊後守」、「関根若狭守」などの武士的な名がみえる。倉賀野の地侍的な人物と推定される。

 戦国期の倉賀野には「倉賀野十六騎」と称する人々が存在し、近世の倉賀野の町の草分けになったといわれる。「上野日月供名簿」に名が見える中嶋豊後守は、十六騎の一人にも挙げられている*2

 倉賀野では、彼ら町人的武士たちが戦国大名の支配に協力しつつ、発展していったとみられる。

参考文献

  • 久保田順一「戦国期の倉賀野町」(『室町・戦国期 上野の地域社会』 岩田書院 2006)

*1:群馬県吾妻郡東吾妻町

*2:倉賀野十六騎には細野氏もみえるが、官途名は対馬守とされており、「上野日月供名簿」の佐渡守とは異なる。