戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

直江津 なおえつ

 越後国頚城郡、関川の河口部に位置する港町。中世、関川流域の頚城郡や越後国府(府内)の港として、また東日本海海運の東西を結節する要港として多くの船が往来して栄えた。16世紀頃に成立した『廻船式目』に挙げられる「三津七湊」にも「今町」として挙げられており、全国的に知られた港町であった。

東西の境界

 『義経記』の中では、直江津北陸道の中間地点と位置付けられている。このため、奥州へ逃れる義経一行が、直江津の西側では羽黒山伏が熊野へ下向するところ、直江津の東側では熊野山伏が羽黒へ参るところだと偽ろうと画策しているくだりがある。

 少なくとも『義経記』が成立した室町期において、直江津は東西の境界と認識されていた。また義経は、直江津佐渡から来た船に乗って出船している。佐渡や出羽への渡航地でもあったことが分かる。

東西の船が集まる港

 室町期成立の謡曲『婆相天』でも、直江津で問の左衛門に仕えていた姉弟が、それぞれ東国と西国から来た船の船頭に売られている。この謡曲『婆相天』からも、問がおり、東西の船が集まる直江津の姿をうかがうことができる。

直江津の商品流通

 各地から多くの船が集まる直江津は、上杉氏領国の重要な経済拠点でもあった。永禄三年(1560)五月に、長尾景虎が府内に出した諸役・地子免除に関する条目では、「茶ノ役」や「清濁酒役」とともに、直江津への入港船と船荷にかかる役も免除になっている。

 船荷には「鉄役」があり、鉄が輸入されていたことが分かる。また「青苧座」の船が出入りしていたことも記されている。関川上流から青苧が集められ、直江津から京都方面に向けて若狭の小浜などに輸送されていたとみられる。

関連交易品

参考文献

  • 「第1章 第六節 『婆相天』の舞台」 (『上越市史 通史編2 中世』) 2004
  • 「第4章 第三節 春日山城と府内・春日・善光寺門前」 (『上越市史 通史編2 中世』) 2004