江戸湾の最奥部、目黒川(品川)河口部に位置した港町。中世、関東屈指の要港として江戸湾水運のみならず伊勢、紀伊方面など遠隔地との海運の中心を担って繁栄した。
宿場町
16世紀前半成立と推定される「千葉妙見大縁起」の建治元年(1275)の項には、「品川宿」がみえる。鎌倉末期には、宿場町として形成されていたことが分かる。
帆別銭の徴収
14世紀末、神奈河とともに品河に入港する船からは帆別銭が徴収され、円覚寺や称名寺の造営料に充てられていた。永和四年(1378)の上杉憲春施行状では、「武蔵国神奈・品河以下浦々出入船」から帆別銭を徴収するとしている。神奈河、品河の両港が、武蔵国を代表する港であった。
伊勢国からの来航
明徳三年(1392)正月から八月までの品河への入港船について記した「湊船帳」には、「大塩屋」や「馬漸(瀬)」、「藤原」など伊勢大湊周辺の地名を冠する船の名がある。この時期には、伊勢国からの船も頻繁に品河に入港し、品河の問と取引していたことが分かる。
15世紀後半に品河を訪れた禅僧・万里集九は、「品河浜」に繋留してあった伊勢の商船が転覆して数千石の米が沈んだことを『梅花無尽蔵』に記している。伊勢と関東を結節する要港として、品河に大量の物資が集積されていたことがうかがえる。
文化的な風土
また関東の海の玄関口である品河には、布教拠点としての寺院が軒を連ねていた。上述の万里集九をはじめとして、連歌師の宗祇や宗長ら多くの旅人、文化人、僧侶が訪れた。万里集九は「武陵之品河、有風流士」とも記し、品河の文化的な高さを書きとどめている(『梅花無尽蔵』)。