戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

富津 ふっつ

 内海(現・東京湾)に突出した富津崎先端部(現・富津元州地区)の港町。古戸とも呼ばれた。六浦など対岸地域への渡航地として、内海交通の一端を担って栄えた。

浦賀水道をつなぐ航路

 応安三年(1370)十月の上総国波多澤村検見帳には、金沢称名寺領であった同村からの年貢輸送に関し、「ふんと(古戸)のといれう(問料)」と「六浦といれう」が計上されている。富津(古戸)から六浦という輸送ルートが存在し、その輸送を担う「問」(輸送業者)が活動していたことが分かる。

 このほか天羽郡佐貫郷など周辺の称名寺領の年貢の多くも、富津経由で輸送されたとみられる。当時、富津は流通上の大きな役割を担っていたと思われる。

里見方海賊の拠点

 戦国期、内海、浦賀水道を挟み、北条氏と里見氏の抗争が激化する。この中で富津は、地理的条件から里見氏方海上勢力の軍船基地としても利用されるようになる。

 永禄十二年(1569)六月、金沢に繋留されていたとみられる「金沢船」三艘が、海賊に奪取された。山本正直率いる北条方海賊衆が、これを奪い返しているが、北条方はさらに追撃して敵船二艘を富津へ追い込んだ。おそらく、この海賊は奪取した船を富津へと移すべく航行していたものと思われる。

 金沢への海賊侵入は、元亀二年(1571)にも記録されている。この時期、造船基地である六浦・金沢を狙い、里見方海賊がたびたび渡海侵攻していることがうかがえる。

参考文献