戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

佐貫八幡 さぬき やわた

 内海(現・東京湾)への入口である浦賀水道の東側、染川河口部の鶴峰八幡宮門前に位置した港町。上総国西部の要衝・佐貫城の城下港であり、同時に対岸の三浦半島への渡航地でもあった。

三浦半島への港

 14世紀、金沢称名寺領佐貫郷の年貢は、富津を経由するものの他に、直接称名寺に運ばれるものがあった。その搬出港が、八幡浦であったといわれる。

 永禄七年(1564)、佐貫城に在城していた足利義氏が鎌倉に帰還した。この時、八幡浦から出船している。八幡浦が三浦半島、もしくは同半島を回航して鎌倉など相模湾沿岸へと至る渡航地であったことがうかがえる。

「佐貫市場浦」

 鎌倉の鶴岡八幡宮造営が行われていた天文六年(1537)八月、上総峰上産出の大鳥居木が「佐貫市場浦」から搬出され、三浦半島の三崎、小坪浦を経て鎌倉の内港である由比ヶ浜に運ばれた(『快元僧都記』)。この「佐貫市場浦」とは、八幡浦を指すものと推定される。

 「市場」の名称から、当時、鶴峰八幡宮周辺に市場が立っていたことがうかがえる。さらに八幡浦が消費地である鎌倉や、相模国への木材の積出港であったことがわかる。

参考文献