大井川の河口部、鵜山岬と串山崎に囲まれた小さな湾に臨む港町。中世、長門国阿武郡の中心的地域であった大井郷の港湾として栄えた。河口部から約5キロほど遡った場所には現在でも「市場」や「領家」の地名が残っており、港町・大井は日本海と大井郷とを結ぶ外港として機能したとみられる。
国人領主と水運
文明十年(1478)十一月、益田貞兼は応仁・文明の乱の論功行賞で大井浦100貫の知行を得た。以後、大内氏滅亡まで益田氏は大井浦を継続して知行している。同氏は博多近辺や見島にも所領を持って水運活動を展開していたとされる。大井浦もまた、同氏水運の拠点に位置づけられたものと思われる。
その後毛利氏が大内領を吸収すると、大井を含む阿武郡は吉見氏の支配地域となる。関が原合戦後、毛利氏が本拠地を萩に移したことにより、吉見広頼は萩の指月山から大井浦串山に移って隠居地とした。吉見氏も、大井浦を重視していたことがうかがえる。
船頭の活動
元亀四年(1573)八月、大井八幡宮*1に参詣した吉見広頼は大井浦に立ち寄った。浦人から話を聞いたところ、彼らは疫神および荒神社の大木を伐って大歳丸、疫神丸という船を建造したこと、当浦には松浦、三井の両船頭がいることを話したという。
この内の三井氏は、天文二十四年(1555)、三井元助が8反帆の船1艘を石見温泉津に置いて大内氏のために働いた功により、諸浦への堪過を認められている。元助は後に吉見氏に属し、永禄元年(1557)九月に大井郷で屋敷地などを安堵された。
元助の子とみられる三井実助も、吉見氏に仕えて活躍。天正二十年(1592)五月、大井郷の屋敷と同郷大弘寺(大光寺)領内に5石の知行給付を約束されている。
関連交易品
関連人物
参考文献



















