戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

通 かよい

 長門国青海島、東端に位置する港町。青海島を含む島嶼と仙崎半島によって囲まれた仙崎湾にあって、さらに三方を陸に囲まれた天然の良港であった。かつ日本海航路へと連絡に優れることから、同航路の要港として栄えた。

海上勢力・後根氏

 戦国期、通は瀬戸崎や向津久にも拠点を持つ海上勢力・後根氏の本拠だった。天文二十年(1551)、山口を追われた大内義隆は同氏を頼って瀬戸崎にたどり着き、海路による脱出を図った。『陰徳太平記』によれば、このとき後根壱岐守は若州(若狭)へ赴いていて留守にしていたという。

 当時の若狭は、日本海航路における畿内への玄関口。後根氏が日本海水運に関わり、若狭の小浜や越前の敦賀に物資を運んでいたのかもしれない。

毛利氏の海関

 永禄七年(1564)八月十三日、毛利氏の山口奉行・市川経好は、温科吉左衛門尉の持船三艘のうち一艘について、駄別、船前、帆数などの役を免除することを赤間関肥中関、通関、須佐関、温泉津関の奉行に告げている。毛利氏時代において通には海関が置かれ、「通関奉行」が任命されていた。通が日本海航路の要港として重視されたいたことが分かる。

 また通や瀬戸崎の浦人は、戦時に警固衆として徴発されていた。永禄年間の毛利氏奉行人連署状には、「通・瀬戸崎其外近浦之仁等」の石見での警固船活動に対する毛利氏の褒詞を、通関奉行が伝達したことがみえる。

関連交易品

参考文献

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向岸寺から眺めた通の町並み。

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通の港。

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白塗りの建物が早川家住宅。早川氏は中世には後根氏と称していた。

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天文七年(1538)に開基された向岸寺の参道。

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住吉神社の社殿。