戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宮腰 みやのこし

 北加賀の低湿地帯を蛇行して海に注ぐ犀川の河口部に位置する港町。河川水運を介して内陸地域とつながり、北加賀の要港として栄えた。

古代からの湊

 平安期の『延喜式神名帳』に、宮腰の「大野湊神社」(佐那武社)が記されている。古代から「湊」であったことが分かる。中世は、北に接する同じ臨川寺領大野庄の大野湊とあわせて「大野庄湊」ともよばれた。

商船の来航

  応安五年(1372)六月、幕府は加賀守護に対し、民の商売の煩いになるという理由で「大野庄湊」に着岸する「商舟」への課役を禁じている。中世、宮腰を含む「大野庄湊」が、各地から商船が来航する港町であったことが分かる。

中世文芸にみる宮腰

 宮腰の繁栄は、中世文芸の世界にもみることができる。室町期成立の幸若舞曲『信田』では、主人公が人商人に転売され、小浜敦賀三国から、「かゞの国にきこえたるみやのこし」を経て小屋湊へたどり着いている。

 説経節『をぐり(小栗判官)』では、照手姫が宮腰の商人に買われ、さらに本折、小松の商人に売られている。宮腰が、日本海でよく知られた港であったことがうかがえる。

朝鮮からの船

 『祇陀大智禅師行録』によれば、正中元年(1324)、祖継大智が中国から高麗を経て「加州石川郡宮腰津」に帰国している。このことから、朝鮮からの船も入港する場合もあったことがうかがえる。

塩町の形成

  このため、宮腰は地域経済の中心でもあったとみられる。文明十四年(1482)十二月の「大野庄年貢算用状」には、「宮腰塩町在家三郎次郎」がみえる。当時の宮腰に、塩の流通拠点として塩町が形成されていたことが分かる。

参考文献

  • 朝香年木 「「大野庄湊」とその後背流通路」 (『中世北陸の社会と信仰』 法政大学出版局 1988)