戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

橘屋 三郎五郎 たちばなや さぶろうごろう

 越前国北の庄の有力商人。左衛門尉。薬種・絹織物を取り扱った。朝倉氏や織田氏のもとで、唐人座や軽物座などの座長となって座の商人から役銭徴収も行った。

越前の有力商人

  弘治三年(1557)十一月、朝倉義景は橘屋に対して、「調合薬売買」の際に、門験薬銘「橘」字を惣領一人に限り用いることを安堵。さらに「酒売買座」についても、「先々の如くたるべし」とした。朝倉領内において薬種販売を手がけ、酒の販売も行う有力商人であったことがうかがえる。

 橘屋は元亀二年(1571)十二月にも朝倉義景から商売や諸役免除の許可を得ている。朝倉氏との結びつきが強い、特権商人でもあったとみられる。

輸入品流通を統括

  朝倉氏の滅亡直後の天正元年(1573)八月二十五日、橘屋は織田信長から「北庄三ヵ村軽物座」での地位を保障され、翌月には「軽物座長」に任命された。これは織田氏が朝倉氏と同様に、越前における橘屋の立場を重視したためとみられる。

 天正二年(1574)には、三ヵ庄(北の庄と他二つ)、一乗、三国、端郷で唐人座と軽物座の責任者とされている。唐人座は唐物、軽物座は絹織物を扱う商人仲間であった。同じく輸入品である薬種を扱う橘屋は、両座とも緊密な関係にあったと思われる。

 北の庄には織田氏重臣柴田勝家が入り、越前の支配を担当した。天正三年(1575)九月、勝家は「唐人座軽物座」への「役銭」徴収権を橘屋に安堵。同年十二月、三国湊商人中、端郷商人中に対して、橘屋による両座の「役銭」徴収に従うよう命じている。

 橘屋の権限はこればかりでなく、「紺屋方軽物座役銭」の徴収、「一乗町十七人紺屋中」の支配権もあった。

参考文献

  • 永原慶二 「戦国織豊期日本海海運の構造」( 『戦国期の政治経済構造』) 岩波書店 1997