戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

高須 元兼 たかす もとかね

 戦国末期の毛利家臣。備後高須の国人・杉原高須氏の当主。仮名は彦七。官途名は宗左衛門尉、後に筑後守。高須元士の子。高須元言の父。

高須元士の嫡子

 高須元兼は、天文二十二年(1553)*1、高須元士の子として生まれた。永禄八年(1565)二月、毛利輝元から加冠を受け、元服天正三年(1575)十二月、宗左衛門尉の官途名を与えられた。

赤間関の支配

 毛利領国の要港・赤間関では、天正六年(1578)頃まで、堀立直正が関代官の地位にあった。直正辞任後、その役割を引き継いだのが、元兼と井上元治だった。

 天正七年(1579)頃、両名は毛利輝元から、赤間関の「関役料」の決定と徴収を指示されている。関役料については、長府町人、井崎・竹崎*2の者たちにも、同様に賦課するよう併せて命じられている。

 またある時、赤間関では「役人」*3赤間関町人との対立が激化。ついには赤間関町人たちが逃散する事態となった。元兼と元治は、毛利輝元の指示のもと、原因となった「役人」を追放するなど、町人の帰還を促している。

 天正十三年(1585)以降は、羽柴秀吉の要請による毛利氏の伊予出兵や九州出兵を受けて、赤間関と近辺の浦々からの警固船徴発やその指揮、九州方面の情報収集にあたっている。

海外との貿易

 高洲家蔵には、そのことを示す高須氏家紋入りの船旗が残されている。船旗中の墨書によれば、天正十二年(1584)十月、中国・明朝から来航した商人・蔡福らと、泉州府普江県の商船2隻が翌年六月に赤間関に来航した時、この船旗で確認して売買することを約束している。

 高須元兼は、赤間関にあって毛利氏の海外貿易も担当していたとみられる。年未詳だが、毛利輝元は元兼に対し、「しらか」(白い絹糸)、唐糸、緞子、「せんむしろ」(氈の敷物の一種)、「あしまき」等の輸入品について、ごく内々に調達するよう命じている。「せんむしろ」については、赤色のものを「あり合次第ニ、いつ成とも」と具体的に指示している。特定の品目について指示を受け、外国船から購入することもあったことがうかがえる。

朝鮮渡海

 元兼の天正末年の所領は、備後沼隈郡に337石余、同御調郡に50石余、安芸山県郡に60石余だった。赤間関のある長門国に所領がないことから、この頃には赤間関代官の任は解かれていたと考えられる

 文禄元年(1592)、日本軍の朝鮮侵攻(文禄の役)においては、元兼は独力で船を調えて朝鮮に渡海した。これにより、文禄三年に50石の加増を約束されている。

関ケ原合戦後

 慶長七年(1602)年正月、毛利秀就から筑後守の受領名を与えられた。この2年後の慶長九年(1604)十二月、子の元言が毛利輝元の加冠で元服した。

 慶長二十年(1615)九月、高須元言が父元兼の一跡を継ぐことを、毛利輝元、秀就が承認している。元兼は当時62歳となっており、子に跡を譲り隠居したとみられる。その後、寛永五年(1628)十月十七日に没した。享年は75歳だった(「閥閲録 巻67」)。

参考文献

  • 岸田裕之「人物で描く 中世の内海流通と大名権力」(『海の道から中世を見るⅡ商人たちの瀬戸内』) 広島県立歴史博物館 1996
  • 岸田裕之「大名領国下における赤間関支配と問丸役佐甲氏」(『大名領国の経済構造』 岩波書店 2001)

*1:寛永五年(1628)に75歳で没している(『萩藩閥閲録』67)。

*2:現在の下関市伊崎町・竹崎町

*3:赤間関で町人の指導的立場にあった人物と考えられている。最上層の特権商人か。