戦国期の廻船商人。藤左衛門尉の子。父の跡をついで毛利氏の海上輸送を担った。
父の跡を継ぐ
永禄十年(1568)四月、毛利輝元から加冠を受け、同時に毛利元就から「就」の偏諱を与えられて就貞を名乗る。
父の藤左衛門尉は、天正四年(1576)頃に没したとみられる。就貞は同年七月一日に、父の官途であった「藤左衛門」を毛利輝元から与えられた。
同月十一日には、父親の得ていた「諸分国中諸関」の通行料免除の特権も毛利氏に安堵された。一方で毛利氏奉行人からは、特権を引き続き認めるかわりに、「船留」(織田方に対する海上封鎖)を油断なく行うことを求められている。
毛利氏の海上活動を助ける
父と同じく就貞も、毛利氏の海上活動を担ったとみられる。天正十三年(1585)二月、就貞が船一艘の馳走を申し出たことについて、小早川隆景が井上春忠に「祝着千万」だと伝えている。
毛利氏による同年の伊予出兵でも、就貞の船は小早川秀包の渡海用に暫く借用されることになっていた。五月下旬、小早川隆景から乃美宗勝や安国寺恵瓊に伝えられている。