戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

櫛間 くしま

 志布志湾の東端、福島川の河口部に位置する港町。現在の宮崎県串間市日南海岸の南端部にもあたり、東は日向灘に面する。日向国土佐国大隅国をつなぐ海路の要衝にあり、琉球や東南アジア方面との対外貿易の基地ともなった。戦国期、島津氏と肝付氏が激しく争奪戦を繰り広げた。

対外貿易の展開

 永禄六年(1563)二月、島津貴久は「日向国櫛間湊」の天神丸の船頭日高但馬守に琉球渡海を免許する朱印状を発給した(「島津貴久琉球渡海朱印状」)。天正十年(1582)九月にも島津義久が「福島湊」(櫛間湊)の恵美酒丸船頭日高新介の琉球渡海を許している(「島津義久琉球渡海朱印状」)。櫛間が琉球とつながりを持つ港町であったことがうかがえる。

 櫛間城跡からは中国、朝鮮、タイ、ベトナムなどの陶磁器の遺物が出土しており、これらも琉球経由で流入した可能性が指摘されている。

土佐との交流

  永禄十一年(1568)とみられる年、肝付氏が櫛間湊周辺で海上封鎖を行っていた。そこに長宗我部氏領・浦戸の「土佐船」が通過し、肝付方の矢を受けてしまい死者が出た。事件の経過は肝付氏老中・薬丸兼将から長宗我部氏家老・江村親家に報告された。肝付氏は船頭の帰国の許可とともに、今後の廻船の通行を申し入れている。

 このことから、長宗我部氏の土佐統一前から、浦戸船籍の廻船が豊後水道を経て志布志湾付近を航行していたことが分かる。廻船の目的地は島津領であったとみられる。

 天正四年(1576)頃の長宗我部元親宛の島津義久書状によれば、先年、島津氏本拠・鹿児島から土佐船が帰帆する際に肝付氏に拿捕された事件があった。義久は元親にこのたび肝付氏に命じて送還させる旨を伝えている。長宗我部領と島津領の廻船の往来がこの段階でも継続されていたことが分かる。義久は書状の中で「廻舟彼是向後互為可申承」と今後の廻船交流も提案している。

島津氏の直轄支配

 天正二年(1574)、肝付氏は島津氏に降伏するが、櫛間は肝付氏の領有が認められた。一方で島津豊州家の島津朝久は自家の本領であるとして櫛間を与えてくれるよう義久にたびたび申し入れている。このあたり、櫛間の重要性がうかがえる。ところが、天正五年春、島津氏は肝付氏から櫛間などを没収し直接掌握した。

 その後、先述のように天正十年に船頭日高新介に「琉球渡海朱印状」を発給するなど琉球につながる交易港として活用している。

秋月種長の入部

 天正十六年(1588)、島津氏が豊臣秀吉に敗れると、櫛間には秋月種長が入った。文禄五年(1596)閏七月五日、薩摩から左遷を解かれて帰洛する近衛信輔が志布志を出船して「くしまのうらちの(々)湊といふ浦」に停泊。領主秋月入道のもてなしを受け、同7日に出船した(「玄与日記」)。信輔は豊後を経て土佐に渡り、長宗我部氏の警固を受けながら兵庫へ至っている。

地域の流通

 慶長四年(1599)の庄内の乱に際して、櫛間から庄内(現在の宮城県都城市及びその周辺)へ魚塩が搬送されていたらしい(「樺山久高譜」)。当時の流通実態を垣間見ることができる。

参考文献

  • 津野倫明 「南海路と長宗我部氏」(『長宗我部氏の研究』 吉川弘文館 2012)
  • 安藤保・大賀郁夫・編 『街道の日本史53 高千穂と日向街道』 吉川 弘文館 2001
  • 角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三 編  『角川地名大辞典 45 宮崎県』 角川書店 1986