戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

玉礀筆「遠浦帰帆図」 えんぽきはんず

 中国南宋の画僧・玉礀(ぎょっかん)によって描かれた墨絵。中国の洞庭湖に注ぎ込む瀟水と湘水の周辺の山水自然を、水墨の濃淡で描いた「瀟相八景図」の一景。

足利義政による改装

 足利将軍家所蔵の名物であり、幕府同朋衆・能阿弥が将軍家所蔵の絵画を記録した『御物御画目録』の「紙横」の項目に「八景 玉礀」と記されている。

 16世紀後半に活躍した画家・長谷川等伯の『等伯画説』によれば、もとは瀟相八景八図よりなる画巻であったが、足利義政の命により寸断され、能阿弥、相阿弥が八幅の掛け物に改装したという。この八幅の掛け物は、茶湯の流行に伴って値を上げ、百貫から千貫となり、さらに三千貫にまでなったという。「遠浦帰帆図」はこの八幅の内の一つである。 

北条氏が所持

 茶人・山上宗二天正十五年(1587)頃に著した茶湯書『山上宗二記』には、「遠浦帰帆図」について、「遠浦帰帆 北条殿ニ在」「其古ハ連歌師宗長所持、其後今川義元所持」とある。連歌師宗長から駿河今川義元の所持を経て、当時関東の北条氏が所持していたことが分かる。

 天文二十三年(1554)に結ばれた甲相駿三国同盟の際に、今川義元から北条氏康に友好の証として贈られたのかもしれない。

地域画壇への影響

 北条氏が所持することになった「遠浦帰帆図」は、地域の画壇にも大きな影響を与えた。会津蘆名盛氏の画師であった僧・雪村周継は、小田原や箱根湯本の早雲寺に来遊した際に「潑墨山水図」を描いている。この山水図は、雪村が玉礀の「遠浦帰帆図」を知った直後のものであろうと指摘されてる。

 雪村は小田原で北条氏康、氏政に謁見した際に「遠浦帰帆図」に接する機会を得たものと考えられる。

羽柴秀吉の戦利品

 天正十八年(1590)七月、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると「遠浦帰帆図」は秀吉によって召し上げられる。『他会記』天正十八年九月二十三日条に、聚楽第で催された秀吉の茶会で飾られた掛け物に「一、床ニ帆帰御絵、但、今度北条殿より取候也」とある。「遠浦帰帆図」が北条氏を滅ぼして手に入れた戦利品として、参加者に披露されていたことがうかがえる。

現在に至る

 「遠浦帰帆図」はその後、秀吉から徳川家康に贈られ、家康の死後は尾張藩初代の徳川義直に伝えられた。現在は愛知県の徳川美術館に収蔵されている。

参考文献

山上宗二記』玉礀八幅