戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

茶入「つくも茄子」 つくもなす

 戦国期に「天下一の名物」とうたわれた唐物茶入。村田珠光が買い求めた時の価格が九十九貫だったので、『伊勢物語』の「百年に一とせ足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」を引いて銘としたとされる。

『山上宗ニ記』にみる来歴

 千利休の高弟・山上宗二天正十六年(1588)頃に著した『山上宗二記』には、「つくも茄子」の由緒が記されている。

 これによれば、村田珠光に見出された後、東山御物となり、その後方々を伝わり越前朝倉氏の朝倉太良左衛門(宗滴)が五百貫で手に入れた。それを越前府中の小袖屋が千貫で購入し、戦乱を避けて京都の袋屋に預けていたところ、天文年間の法華一揆の中で所在不明となった。これを入手した松永久秀が、二十年ほど所持した後に織田信長に進上した。最終的には本能寺の変の際に焼失したとされる。

 『宗二記』が著された際には失われていたが、宗二は最後に「土薬、ナリ(形態の良さ)、此(使い易い大きさ)、口作リ、古人天下一ノ名物ト申云々」と当時の評価を記している。

服属の証

 「つくも茄子」が織田信長に進上されたのは、永禄十一年(1568)十月三日。足利義昭を伴って上洛した織田信長に対し、松永久秀が竹内季治や畠山高政、昭高、池田勝正らとともに参礼に訪れた際であり(『言継卿記』永禄十一年十月四日条)、『信長公記』巻一には「松永弾正は我朝無双のつくもかみ進上申され」とある。

 松永久秀は「つくも茄子」を信長に贈ることで、自身の服属を視覚的に表明したと考えられる。このこともあってか、久秀は信長より大和一国の進退を任されている(『多聞院日記』永禄十一年十月五日条)。

如意宝珠

 また「つくも茄子」には、政治的な意味があったとも考えられている。相国寺の惟高和尚が松永久秀の求めに応じて記した『作物記』に、「つくも茄子」の由来がある。昔中国ではこの茶入を蓬莱假山の山頂に安置しており、如意宝珠とよばれていた。その後、日本に伝来して「つくも」と名づけられ、足利義政らの手を経た後、松永久秀が国家を司るということで、永禄元年(1558)春に進上してきた者がいる、としている。

 如意宝珠は一切の願いが叶う宝玉であり、中世では王権の象徴としても捉えられている。上記の由緒によれば、松永久秀に「つくも茄子」を進上した者は、久秀を国家を司る人物と認め、王権を象徴する如意宝珠になぞらえて「つくも茄子」を進上したということなのだろう。

政治的利用

 松永久秀から織田信長へ「つくも茄子」が進上された際にも、久秀から以上のような由緒が語られたかのかもしれない。信長は道具の由来を客に披露して、自身の権威を高める場として茶湯を利用している側面があった。このような点からも王権の象徴たる由緒を持つ「つくも茄子」は信長にとって重要な茶道具となったと思われる。

現在に至る

 なお、本能寺の変で焼失したとされる「つくも茄子」であるが、本能寺の焼け跡から発見されて羽柴秀吉の手に渡った。後の大坂の陣の際に、再び戦火に遭うも、焼け跡から探し出されて修復され、現在に至っている。

参考文献

  • 竹本千鶴 『織豊期の茶会と政治』 思文閣出版 2006