戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

熱田 あつた

 熱田社の門前町。中世、伊勢湾に突き出した岬の先端部に位置していた。旧東海道の宿場町として水陸交通の要衝を占めて栄えた。

熱田へ参詣する人々

 16世紀前半の享禄年間に描かれた『享禄古図』の江戸期の模写には、大勢の神主、僧侶、武士、旅人などで賑わう熱田社と熱田の町が描かれている。当時の繁栄をうかがうことができる。

 交通の要衝にあった熱田には多くの旅人や、参詣客が訪れていた。例えば大永六年(1526)、連歌師・宗長は守山から熱田を経て鳴海に向かっている(『宗長手記』)。天文十三年(1544)、連歌師・谷宗牧も津島から熱田社の見物に訪れ、再び津島へ戻っている(『東国紀行』)。

濃尾平野の港

 熱田は濃尾平野の主要港の一つでもあった。『船々聚銭帳』*1には、計4艘の宮(熱田)舟の伊勢大湊入港が記録されている。

 このうちの1艘は「常滑半十郎」の船であった。常滑など近隣諸港と熱田との関係もうかがえる。熱田船が運んだものは不明だが、庄内川(草戸川)を通じて上流から運ばれる材木や瀬戸の焼物などではなかったかと推定される。

町衆による防衛戦

 『信長公記』によれば、永禄三年(1560)の桶狭間合戦前夜、「武者舟」千艘計りの今川方が熱田の湊に押し寄せた。熱田の町人はこれを迎撃し、数十人を討ち取ったという。熱田の町衆の力をうかがえる。

参考文献

*1:永禄八年(1565)十一月から十二月、翌年三月から四月にかけての伊勢・大湊への入港船を記録