戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鯨 くじら

 鯨は古くから知られた大魚であり、平安期の『和名類聚抄』には「いさな(鯨) 」としてみえる。 鯨食が本格化したのは中世以降。貴重な高級食材であり、貴人の間での饗応や贈 答に用いられた。浜に打ち上げられた鯨を捕獲するだけでなく、銛による捕鯨も 一部地域で始まっていた。

寄り鯨の利用

 日本における鯨の利用は、少なくとも平安期以前に遡る。和歌山県東牟婁郡太地町 には、長元八年(1035)の「南牟婁郡有馬村に大魚上がる。長四丈八尺、油 三百樽を得る」という記録がある。11世紀には既に、寄り鯨(漂着した鯨)を処理して利用する技術があったことが分かる。

  『吾妻鏡』にも貞應三年(1224 )に、「大魚」が三浦崎や六浦周辺に大量に漂着し、鎌倉中の人々がそれを買って家で煎じて油をとったという記述がある。また『大外記師遠記』には、大治二年 (1127)に肥前に鯨が漂着して多くの人が油を取り、鯨体内から「珠」を採 取して献上したと記されている。この「珠」は龍涎香とみられる。

捕鯨の始まり

 室町期以降、食品としての鯨の利用が記録から確認できるようになる。蜷川親元が著した『親元日記』によれば、寛正六年(1465)に伊勢から「 鯨荒巻」が、文明十三年(1481)には尾張織田氏から年始の祝儀として「鯨荒巻」が献上されている。

 鯨は伊勢・尾張の名産物であったらしく、織田信長も知多で取れた鯨を朝廷に進上し、一部を「すそわけ」として細川藤孝に贈っている。天文五年(1536)、本願寺に対しても伊勢から鯨の荒巻が贈られている(『 証如上人日記』)。他にもこの地域からの鯨の献上が、史料状多く散見される。

 近世初期成立の『慶長見聞集』からは、16世紀末の文禄年間には伊勢・尾張両国では銛や網を使った捕鯨が行われていたことが分かる。この技術は後に関東に伝えられた。

「すそわけ」の慣習

 なお織田信長が朝廷に進上し、さらに細川藤孝に鯨を「すそわけ」したように、当時、捕獲された鯨はなるべく多くの人に分配する習慣があった。

 関東の小田原北条氏の事例では、北条氏政が伊豆雲見の領主高橋氏から鯨を贈られた際に、「関東衆」に遣わす為に半分か三分の一を公儀(北条氏)に上納することを命じている。氏政は鯨肉を「関東衆」(北条氏と同盟関係にある関東の国衆)に分配するつもりであり、これは先の信長の事例と同じ「すそわけ」とみることができる。

鯨の調理法

 長享三年(1489)の奥書がある『四条流包丁秘伝書』は、格の高い食品とし て鯨を挙げ、将軍家の包丁職「大草家」の鯨調理法を伝えている。

 料理としては鯨汁(吸い物)が多かった。永正十五年(1518)の畠山邸における将軍足利義稙への饗応の際の献立 (『畠山亭御成記』)や、天正十年(1582)に織田信長安土城徳川家康を饗応したときの献立、天正十八年(1590)に毛利輝元豊臣秀吉を自邸に招いた際の饗応の献立などに鯨汁がみえる(『輝元聚楽第江秀吉公御成記』)。

 また公家たちの間では、鯨が手に入った際に鯨汁などを作って食事会をすることもあったようである(『言継卿記』天文二年二月の記事など)。

 さらに、寺院でも鯨は食べられていた。京都相国寺の日記『鹿苑日録』によると、慶長五年(1600)一月五日の会席で鯨汁が出されている。同年には西芳寺から陰涼軒(相国寺)へ鯨が贈られていることもみえる。

参考文献

  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007
  • 盛本昌広 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文間 2008
  • 森田勝昭 『鯨と捕鯨の文化史』 名古屋大学出版会 1994