戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

関船 せきぶね

 日本で用いられた中型の軍用船。元は海賊船を意味する名称であったともされる。機動力に優れ、海関(多くは海賊の拠点)周辺において航行する他の船舶から通行料を徴収するのに適していた。江戸期、幕府が大型軍船の所有を禁止したため、諸大名の代表的な軍船となった。

辞書の記述

 宝暦十一年(1761)に大坂の船大工である金沢兼光が著した『和漢船用集』には、関船について以下のように記されている。

(前略)又曰、四十挺立以下、矢倉なき者是を小早と云、四十挺立以上、矢倉ある者、是を関と云(後略)

 櫓数は40丁以上で、船体の上部には矢倉(甲板)を備えている船が関船であり、櫓数40丁以下で矢倉がない船は小早と呼ばれたという。戦国期の大型戦艦である安宅船の櫓数は50丁から100丁であったと記録にみえるので*1、関船は安宅船より若干小型の軍船であったとみられる。

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 なお16世紀末に作られた『日葡辞書』(日本語をポルトガル語で解説した辞典)は、「xeqibune」(関船)の意味を海賊船としている。実際に「関」には海賊の意味があったらしく*2、永享六年(1434)七月には「与州野嶋関立等」(後の海賊衆能島村上氏)が室町幕府の討伐対象となっている(「足利将軍御内書并奉書留」)。

同時代史料上の関船

 関船の用語は南北朝期には史料上で確認される。正平二年(1347)ころ、九州における南朝方武将のひとり中院義定が肥後の阿蘇(恵良)惟澄にあてた書状の中に「せきふね」の語がみえる(「阿蘇家文書」)。

 書状によれば、中院義定は滞在地の肥後から懷良親王のいる薩摩へ帰るための迎えの船として、「せきふね」(関船)を何者かに要請している。その相手は伊予から懷良親王とともに九州に渡海していた忽那氏だったともされる。

 当時の「せきふね」(関船)がどのような船だったかは不明だが、一種の軍船の呼称として使われていたことがうかがえる。

 ただ、同時代史料での関船の使用例はほとんどみられないという。戦国期では、天正四年(1576)のものと推定される安宅信康宛の織田信長朱印状に、以下の記述がみえる。

従中国大坂以船手、兵粮等可入置候旨、風聞候。於事実者、当国関船出之被追、落者尤以可為粉骨候

 信長は淡路の領主である安宅信康に対し、毛利方が兵船をもって大坂の本願寺に兵粮を差し入れるとの風聞を伝達。もし事実であれば、「当国関船」を出してこれを追い落とすよう指示している。

関所破りの結末

 関船かどうかは不明だが、イエズス会宣教師たちの記録には、瀬戸内海で海賊船に遭遇したことが散見される。たとえば天正九年(1581)、司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノらが船で和泉堺へと向かっていた途中、大坂湾で「海賊」に包囲される事態に陥いっている。

 その発端は、船頭が兵庫関に寄港しようとしたにも関わらず、ヴァリニャーノの主張により堺へ直航したことによる。兵庫関は室町期は東大寺興福寺が関を置き関銭の徴収を行っていたが、当時は織田氏支配下にあった。ヴァリニャーノに同行していた宣教師ルイス・フロイスは、港に織田信長の大船二艘が「海賊」と一緒にいたと書翰に記している。

 ヴァリニャーノらの行為はいわば「関所破り」であった。フロイスの書翰によれば、信長の大船のうち一艘は帆と櫂を用い、もう一艘は櫂のみを用いて宣教師の船への追跡を開始。これを見て「海賊」の船も追跡に加わった。

 ヴァリニャーノやフロイスらが乗る船は、必死に逃げた。フロイスは自分たちの船について「船には25歳以下の青年漕手が30人いて、その漕方は非常に激しく、走るよりは寧ろ飛ぶ如く見えた」と述べている。しかし追跡してくる信長の大船二艘と海賊船のスピードはそれ以上だった。

 ついに堺に上陸する寸前で追いつかれ、「海賊の諸船は我が船を取り巻き」という状況となった。堺からは宣教師たちを助けようと多くのキリシタンが武器や鉄砲を持って浜辺にかけつけてきたが、「盗賊」たちは容赦をせず、結局、多額の銭貨を支払うことになってようやく事態は落着をみたという。

江戸期でのパターン化

 慶長十四年(1609)、幕府は西国を対象として500石積以上の大型船の所有を禁止。これによって安宅船は西国大名の水軍から姿を消し、関船が代表的な軍船となった。500石積相当の関船は、櫓数にして小櫓80丁立(大櫓ならば50丁立)であり、これが関船のリミットであったと考えられている。

 また16世紀末の朝鮮侵攻によって大量の関船の建造が行われたことを契機として、関船の木割がパターン化した。木割とは、航(かわら)*3の長さ、櫓数、帆の反数などを基準として船の各部寸法を割り出していく方法で、和船の基本的な設計方法とされる。

 江戸初期に成立した関船の木割法には、瀬戸流、唐津流、山崎豊後流、境流、和泉流、伊予流などがある。一方で、それらが秘伝とする木割の内容はほとんど差がなく、どの流派の船匠が造っても、出来上がる関船にさして変わりはなかったという。

 船体構造は、かじき・中棚・上棚とで構成する三階造りと、かじきと中棚を一体化した二階造りとの2つがあった。いずれも基本的には典型的な和船構造だが、快速を意図してファインな船型とする点に関船としての特徴があるとされる。

参考文献

朝鮮蔚山攻城図(第一図1扇部分)に描かれた警固船
パブリックドメイン 出典:佐賀県立図書館データベース https://www.sagalibdb.jp/kaiga/detail?id=2

*1:江戸初期成立の『北条五代記』では、北条氏直が伊豆で造らせた「あたけ」の櫓数を50丁としている。また慶長期成立の『信長公記』では、織田信長が琵琶湖で造らせた「おびただしき大船」は櫓数が100丁と記している。

*2:『日葡辞書』には「xeqi」(関)の項目に、関所という意味以外に海賊という意味も記されている。

*3:和船の船首から船尾に通す長く厚い板材