戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ノヴォパクロフカ Novopokrovka

 沿海地方北部を流れるウスリー川支流のイマン川南岸の段丘上に位置する城郭。当時の名称は不明。12〜13世紀に女真人が建国した金および東夏において、恤品路(ロシア沿海地方)北辺統治の中心地であったとみられる。

城址の規模と城壁

 ノヴォパクロフカ2城址は、北面と東面はイマン川に接する断崖に面し、わずかな高まりのある低い土塁が設けられている。南面と西面には、L字状に約980メートルの城壁が構築されている。

 城址の周長は2006メートル。南面と西側面の城壁は版築により、5~8メートルの高さで築かれている。城壁の上面幅は1.5メートル、下面幅は10~12メートルである。

 城壁には計15基の馬面*1が、40~55メートル間隔で付設されている。城壁の前面には堀がめぐっている。さらに堀の外側には幅3~4メートル、高さ0.5~0.7メートルの土塁が築かれている。

 城門は2ヵ所あり、南側の門址は、両方の城壁から鉤手状の土塁が伸び、虎口を包む甕城*2となる。

城内の施設と水運の利用

 城内の東側の中央部には、イマン川に流れ込む小川の谷が入り込んでいる。この小川の出口には平入りの門を持つ土塁が築かれ、水門の機能を持つ城門として機能したと推定される。またこの谷の上り口に平場が設けられている。

 北東端には小高い丘があり、L字状に堀と土塁が三重にめぐっていて、防御性が高められている。内部には平坦面が階段状に作出されている。この頂部に立てば、イマン川の流れや、周辺を一望することができる。

 谷と平場は水運を利用した物資搬入口や管理施設であり、北東の丘は河川交通の見張りを行う場所であったと推定されている。ノヴォパクロフカ2城址下流50キロメートルには、小型城郭であるゴゴレフカ城址が川沿いにあり、両者は河川水運によって結ばれていた。

 住居跡は、城内の北側と西側に集中して見られる。しかし、本来は城内全域に住居や建物が分布していたと考えられている*3

出土品から見た年代

 城内では、陶質土器片、北宋銭(太平通宝、祥符元宝等)、鉄鏃、三足羽釜、鉾、犁(すき)といった鉄製品が採集されている。陶質土器には型押文が施されており、アムール川流域のパクロフカ文化の土器に類似している。

 パクロフカ文化の土器と三足羽釜の共存は、中国黒竜江省の遺跡でも確認されている。同遺跡では金の貨幣である大定通宝も出土し、金朝時代の遺跡とされる。ノヴォパクロフカ2城址も、形状などから見て、12世紀後半以降のものと考えられている。

ノヴォパクロフカ2城址の性格

 ノヴォパクロフカ2城址は、規模において沿海地方北部で最大の山城である。その規模から恤品路(ロシア沿海地方)の北限近くの中心的な城郭と考えられる。

 現在のノヴォパクロフカ市街には、かつて平城のノヴォパクロフカ1城址が存在しており、同時期に利用されていたと推定されている。さらにノヴォパクロフカ2城址周辺には、既に触れたようにゴゴレフカ城址などの中小規模の山城址が分布する。これらの城郭群を含む恤品路の北辺統治の中心が、ノヴォパクロフカ2城址であったとみられる。

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参考文献

*1:城壁に作られた突出部。この部分から横矢を掛ける。

*2:門の外側に、鍵手状の城壁を付属させて小区画を作り、さらにそこに門を設置したもの。日本の城郭の外枡形に近い。

*3:現在城内の大部分が畑地として利用されており、遺物の散布が広く認められるため。