戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ラッコ皮 らっこかわ

 ラッコの毛皮。日本では、ウルップ島(ラッコ島)など千島列島が点在するオホーツク海域で捕れたと推定されるラッコの毛皮が流通した。さらに中国や琉球にも移出された。海虎皮あるいは猟虎皮、海獺皮などと表記されている。

北方からもたらされるもの

 応永三十年(1423)四月、足利義量の将軍職就任祝賀として、「安藤陸奥守」なる人物が昆布五百把、鷲目銭2万匹(疋)とともに海虎(ラッコ)皮20枚を贈っている(『後鏡』)。この「安藤陸奥守」は当時、十三湊を中心にエゾ(北海道)との北方交易で繁栄した下国安東氏の安東康季といわれる。ラッコ皮も昆布とともに交易で入手したものと思われる。

 近世に松前氏が編纂した『新羅之記録』によれば、元和元年(1615)にメナシ(北海道東部)のアイヌが数十艘の船団で松前に来航し、ラッコ皮数10枚を持ってきた。その中には長さ7尺、肩幅2尺8寸余の超大なものもあり、アイヌにとっても「前代未聞の皮」であり、後に松前慶広から徳川家康に献上された。16世紀中頃には、純白のラッコ皮が松前にもたらされたこともあったという。

ラッコ皮の入手経路

  ラッコは北方のオホーツク海域で捕獲された。その入手経路については 、17世紀初頭、松前に潜入した宣教師アンジェリスとカルワーリヤの報告に詳しい。元和四年(1618)のアンジェリス報告によると、エゾ(北海道)東部にあるミナシの国から松前へ、100艘の船がや鰊(ニシン)とともに多量のラッコ皮を運んできて、頗る高価に売られたという。

 また元和六年(1620)のカルワーリヤ報告も、北東方から63日間の航海を経て来航したエゾ人が、「ラッコ島」でとれたラッコ皮を生きた鷹や鷲の羽とともに松前氏に献じたとしている。ラッコ皮は高価な品ではあったが、少なくとも当時、かなりの量が流通していた。

中国への輸出品

 文明十五年(1483)に楠葉西忍が語ったところによれば、永享五年(1433)の日明貿易の交易品*1として「ランコ皮」(ラッコ)があった(『大乗院寺社雑事記』)。「唐土ニテハ冬入者也」とも言っているので、中国において防寒の為に需要があるとの情報を得ていたのだろう。

 1434年(永享六年)には、琉球王国から中国明朝への貢物にも「海獺皮一百張」(海獺は中国語でラッコの意味)がみえる(『歴代宝案』)。中国でのラッコ皮の需要は琉球でも知られていたこと、またラッコ皮が琉球にまで流通していたことが分かる。

日本国内での普及

 延徳二年(1490)頃の『古文真宝彦龍抄』には、「是等はらっこの皮な者共也」という文言がある。「らっこの皮な者」の意味は、「ラッコの手ざわりのよい毛皮。転じて,上下だれに対しでも従順な人,他人 の言うがままになる人をたとえていう」とされる(『日本国語大辞典』)。その特性を踏まえた表現方法が生まれるほど、15世紀末の日本にはラッコ皮が流通していたことがうかがえる。

 天文二十年(1551)頃、若狭守護・武田義統が将軍足利義晴にラッコ革の袴を献上している(『御内書要文』)*2。16世紀には、ラッコ皮の製品化が進んでいることがうかがえる。

参考文献

*1:他には硫黄をはじめ胡椒や太刀、長太刀、槍、銚子匙、赤金、金、蘇芳、吉扇などがあった。

*2:若狭武田氏と蝦夷地の蠣崎氏とは音信があった(『新羅之記録』)。また若狭国は小などの日本海交易の要港があり、蝦夷地との結びつきも強かった。