戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鶴(蝦夷) つる

  鶴は蝦夷地を代表する産物の一つだった。主に高級食材として用いられたが、生きた鶴も愛玩動物として珍重された。

蝦夷地の名産品

 元和六年(1620)に蝦夷地を訪れたイエズス会宣教師ディオゴ・カルワーリュによれば、猟虎(ラッコ)の毛皮や生きた蒼鷹、鷹、鶴、その他の鳥類が、松前から本州にもたらされているという(『カルワーリュの旅行記』)。

 また翌年の元和七年(1621)にはイエズス会宣教師イェロニモ・デ・ アンジェリスも蝦夷地を訪れた。彼の報告書によれば、アイヌ人が乾鮭・鰊魚・白鳥・生きたままと乾かした鶴・鷹・・海驢(あしか)皮を松前に持ってきて、米または小袖、紬、木綿などの着物と交換していた(『アンジェリスの第二蝦夷報告』)。

 鶴や鷹、海驢皮などの蝦夷地の産物は、アイヌとの交易で松前にもたらされ、本州へと移出されていたことが分かる。寛永二十年(1643)、オランダの探検船カストリカム号は、厚岸湾付近でアイヌの小舟と遭遇。彼らはオットセイ・鹿・ ラッコ(川獺の可能性も)および熊の毛皮、死んだ鶴、干魚を積載しており、全てを「日本の長衣」と交換することを望んだという。

 享保二年(1717)の幕府巡検使の記録でも、松前ならびに蝦夷地の土産として、「黄鷹」(1 歳の鷹)の次に「鶴」が挙げられている(『松前蝦夷記』)。さらに「鶴真黒丹頂共,丹頂ハ稀のよし」との記述がある。鶴はマナヅル、ナベヅル、タンチョ ウがいたが、タンチョウは珍しかったことが知られる。また、これらが捕れる場所としては、蝦夷地の内「からと嶋」(樺太)、「きいたふ」(霧多布)・ 「トカチ」(十勝)を挙げている。

本州への流通

 蝦夷地の鶴は江戸初期には全国的に知られていた。寛永十年(1633)の『毛吹草』では松前の産物として、鷹・真羽に続いて塩鶴が三番目に挙げられている。保存のため塩漬にされた鶴肉とみられる。他に干鮭・鯡・鰊・数子・炙鯨・昆布・猟虎・水豹・熊皮・鹿皮などがみえる。

 また越前敦賀の代官の記録で寛文七年(1667)成立の『寛文雑記』には、松前から来る商品として昆布、干鮭、串貝、塩引、いりこ、鯨、鰊、数子、おつとせい、生鶴、真羽、塩鳥之類、皮之類が挙げられている。生鶴は保存の問題から鶴の生肉とは考え難いので、生きた鶴と思われる。塩鳥之類には、『毛吹草』にみえる塩鶴が含まれているのかもしれない。

 松前から船で敦賀に搬入された産品は、さらにここから京都や大坂など畿内各地に運ばれたのだろう。なお『寛文雑記』には商品の搬出元として加賀や越後、庄内、秋田野代津軽田名部、出雲などがみえるが、鶴をはじめ禽獣類を搬出しているのは松前のみとなっている。

高級食材

 鶴は食材として用いられた。明応六年(1497)以前成立の『山内料理書』には「鶴の焼物」がみえる。寛永二十年(1643)の『料理物語』では、 鶴の 「 肉 」 は汁物、せんば(鍋物)、さかびて(酒浸)に、「ももげわた(内臓)」は吸物に、「骨」は黒塩(鶴の骨から作った薬)に用いたとされている。同書には、「鶴の汁」の調理法についても詳しく記されている。

 貴人の饗応の際にも、鶴料理は振舞われた。明応九年(1500)に大内義興足利義稙を饗応した際の料理には「鶴煎物」がみえるし(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)、天正十年(1582)に織田信長徳川家康をもてなした際の献立には「鶴汁」がある(『天正十年安土御献立』)。天正十六年(1588)、後陽成天皇聚楽第行幸した際にも「鶴あいの物」が出されている(『行幸御献立記』)。

生きた鶴も人気

 先述のように、江戸期には生きた鶴の取引も行われていた。寛文元年(1661)閏八月、盛岡藩松前に家臣を派遣して生きたタンチョウ二羽を入手。一羽につき金子10両を支払っている(『盛岡藩雑書』)。購入したタンチョウは庭で放し飼いにされた。

 また寛永二十二年(1644)七月には、「浦目無」(蝦夷地のメナシ地方沿岸部の意味か)のアイヌが田名部に渡海してきて、生きた鶴一羽を献上している。この鶴は盛岡に送られて鶴飼の又五郎に渡された。

 松前藩も鶴を献上品として使っていた。17世紀中頃、盛岡藩に大鷹や鷲羽、昆布、猟虎のほか、生鶴や塩鶴を贈っている。また寛文十二年(1672)には江戸に「活鶴」1羽を献上している(『盛岡藩雑書』)。

 生きた鶴は、愛玩動物として珍重されたのだろう。水戸藩徳川光圀蝦夷地からもたらされたタンチョウを、放し飼いにしていたことが知られる。光圀によく懐き、遠くに外出した際にも側に飛び降りてきたとされる(『桃源遺事』)。

鶴の飼育

 元禄二年(1689)の頃、アイヌの人々は難風で猟に出られない時に備えて、予備食として鶴や熊の子、白鳥、犬などを籠に入れて飼育していた。またタンチョウを卵から孵したアイヌの女性もいた(『快風丸蝦夷聞書』)。

 18世紀後半には松前藩も鶴の飼育、繁殖を行うようになっている(『松前志』)。沙流門別では公(幕府や天皇)への献上のためタンチョウの飼育が行われていたことが、幕府の蝦夷巡察使に目撃されている(『蝦夷の島踏』)。

参考文献

  • 久井貴世・赤坂猛 「タンチョウと人との関わりの歴史―北海道におけるタンチョウの商品化及び利用実態について ―」 2009

f:id:yamahito88:20210814004447j:plain

タンチョウ from写真AC