戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

握郎烏丕沙哥

 カンボジア商船の船主。天正七年(1579)に日本に来航した。カンボジア王が大友宗麟に派遣した使節団を伴い豊後を目指していたが、薩摩に漂着して島津氏に抑留された。

カンボジア王からの使者

 島津氏の外交僧・雪岑津興が著した『頌詩』には、天正七年十一月付で島津義久が「南蛮国甘埔寨賢主君」(カンボジア国王)の「浮喇哈力汪加」に宛てた書状が収められている。

 これによれば、カンボジアの商船一隻が薩摩の港に漂着した際、通訳を介しての尋問が行われた。船主「握郎烏丕沙哥」と貢使「浮喇理璉沙哥」、副使「党膠三牌」らは、「豊州主源義鎮公」(大友宗麟)に「金書・貢物」を贈るために鯨波千里を乗り越えてきたと語ったという。

 これに対し島津氏は、昨年薩摩に侵攻した「豊兵」(大友軍)十万を破り九州一円が島津領となったと喧伝*1。この為「三賢使」は、「金章・貢物」を島津氏に献上したとしている。

島津氏による抑留

 『頌詩』には、先述の島津義久書状にある「金書」「金章」にあたるカンボジア国王の国書も収載されている。島津氏の外交僧に書き写されているということは、握郎烏丕沙哥らが運ぼうとした大友氏宛ての国書は、結局島津氏の元に留置され、大友氏のもとに届くことはなかったのだろう。

 国書からは、カンボジア王「浮喇哈力汪加」が「銅銃壱門」「蜂鑞参百斤」のほか「壱隻」「象簡(象つかい)一名」「鏡匠弐名」などの礼物を握郎烏丕沙哥ら三名に託して大友宗麟に贈ろうとしていたことが分かる。

参考文献

 

*1:実際に天正六年十一月に日向高城で大友軍に大勝してはいる。