伯耆国東部、潟湖である東郷池・橋津川の河口部に位置した港町。中世、東郷池水系周辺や天神川流域(当時は橋津川河口部に合流していた)などの後背地域と、日本海航路を結節する物資集散地であったとみられる。
東郷池周辺にある国衆南条氏の本拠・羽衣石や、伯耆国府、倉吉、関金などの外港的な役割も担っていたとも推測される。
絵図にみる鎌倉期の姿
橋津を含む荘園・東郷荘の中世の景観については、正嘉二年(1258)十一月、領家(京都の松尾社)と地頭との下地中分(分割)に伴って作製された「伯耆国東郷荘下地中分絵図」に詳しい。
この「絵図」によれば、橋津川河口付近に「大湊宮」という社があり、その沖に日本海を航行する筵帆の大船3艘が描かれている。「大湊宮」から少し川を遡った場所、東郷池北側付近には橋が二つ架かっており、その東岸にまとまった在家集落がある。このことから、ここが日本海を航行する船や東郷池水系を運航する川舟が発着する「湊」、つまり中世の港町・橋津であったと推定される。
近江堅田との交流
「本福寺門徒記」によれば大永四年(1524)五月、近江堅田の本福寺門徒が「ハウキノハシズ」に下っている。橋津には堅田門徒の拠点が置かれ、伯耆と畿内との人の往来の基点でもあったことが分かる。