戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

壬生 元泰 みぶ もとやす

 安芸国山県郡壬生を本拠とした国人領主。実名の「元」は安芸武田氏の惣領家である武田元信(若狭武田氏当主)の偏諱とみられる。永正十二年(1515)六月に毛利氏に降伏したが、以後、壬生では諸勢力の争奪戦が繰り返される。

安芸武田氏に属す国人領主

 明応八年(1499)三月、武田元繁(若狭武田氏の安芸国代官)は毛利弘元安芸国吉田を本拠とする国人領主)に対して内部庄(安芸高田市)の安堵を武田元信(若狭武田氏の当主)へ推挙することを約束。このときの重臣の中に、香川質景・白井元胤・熊谷膳直・今田国頼らとともに壬生源蔵人大夫国泰がいた(「毛利家文書」166)。

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 壬生国泰はその実名から、武田国信(元信の父)の偏諱を受けた人物と推定される。少なくとも国信の時代から、壬生氏が武田氏の安芸国における重要な与党であったことがうかがえる。壬生元泰は国泰の後継者として武田元信から偏諱を受け、ひきつづき武田氏に属していたとみられる。

 明応九年(1500)三月、かつての明応の政変で将軍職を追われた足利義植が周防山口に下向して大内義興に迎えられた。幕府はこれに対し、西日本の諸将に義植・義興の追討を命令。武田元信も小早川扶平や毛利弘元に協力を要請しており、反大内の姿勢をとっていた。

 永正五年(1508)、大内義興が足利義植を奉じて上洛。このとき元信の安芸国における代官的な立場にあった武田元繁が義興とともに上洛しており、親大内の立場に転じていたことが分かる。

 しかし永正十二年(1515)、大内義興に従って上洛中だった武田元繁は、義興の許可を得て帰国した直後、義興養女の妻と離別して大内氏から離反。有田氏や今田氏など山県郡の国人も動員して厳島神領に侵攻し、大野河内城(廿日市市高畑)を攻略し、己斐要害(広島市西区)をも攻撃した(『房顕覚書』)。

 一方で武田元繁の己斐要害攻撃で手薄となった山県郡有田(壬生の西方)に、毛利興元(弘元の子)と吉川元経が侵攻。有田城は陥落し、毛利興元から吉川元経に譲られた(「毛利家文書」251)。

毛利氏への降伏

 有田城陥落を受けて、壬生元泰は毛利家臣の三田能登守・井上河内守を通じて毛利興元に降伏。永正十二年(1515)六月一日*1、元泰は興元に対し降伏の受け入れを謝し、「武田方」や「高橋方」に従わないことを起請文で誓っている。

 あわせて「京関東、鎮西役」を毛利氏の「家来」に準じてつとめること、木次の所領100貫を進上することも申し出ている(「毛利家文書」206)。

 翌永正十三年(1516)八月、毛利興元が病死する。これにより武田元繁による山県郡での軍事行動は活発化するが、永正十四年(1517)十月、武田勢は有田での合戦で毛利・吉川ら大内方に大敗。武田元繁も討死した。

第一次壬生合戦

 永正十七年(1520)十月、大内義興が京都から周防山口に帰還。大永二年(1522)三月から大内氏重臣陶興房を指揮官とする大内氏の軍勢が、安芸武田氏の本拠である佐東金山城攻略を目指して侵攻するも、武田方の抵抗が激しく八月に撤退した。

 この頃、壬生でも合戦が起こっていた。同年八月十六日、毛利氏が「山県」で合戦*2(「毛利家文書」209)。翌月十三日には毛利元就が壬生の地を入手するにあたって功績のあった山県元照を被官として認め、「うるし原名」を恩賞として宛行っている(『萩藩閥閲録』巻129)。

 山県元照は壬生元泰の同族とも推定されているが、元泰の動向は不明。毛利氏が壬生に攻め込んでいることから、同地が武田氏や高橋氏ら反大内方に占拠されていたか、壬生元泰が反大内方に寝返っていた可能性が推測される。 

第二次壬生合戦

 大永三年(1523)、毛利氏・吉川氏が出雲尼子氏に帰順。両氏の軍勢を加えた尼子勢が安芸国における大内氏の拠点である東西条鏡山城を六月に陥落させた。これにより、安芸国のほとんどの勢力が大内氏を離れて尼子方となったが、大内氏も反撃に転じ、大永五年(1525)三月ごろには毛利氏が大内方に復帰した。

 しかしこの頃には、壬生を含む山県表は毛利氏の手を離れていた*3。その勢力は石見国邑智郡阿須那を本拠地とする高橋氏もしくはその与党であった可能性が高いとされる。

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 高橋氏は享禄二年(1529)または享禄三年(1530)、拠点である松尾城安芸高田市)や藤根城(島根県邑南町)を毛利氏らに攻略されて滅ぼされた。一方、毛利氏は享禄二年八月十六日に「壬生合戦」(『萩藩閥閲録』巻73)、翌享禄三年七月二十四日には「山県表合戦」を戦っており(『萩藩閥閲録』巻62・巻78)、壬生など山県表でも高橋方と合戦していたことがわかる。

 享禄三年(1530)十二月、毛利氏は大内義隆から阿須那など高橋氏の遺領の知行が認められているが、その中に「山県」もあった(「毛利家文書」257)。これにより、壬生を含む山県表に毛利氏が本格的に進出してくることになる*4

吉川氏と毛利氏の第三次壬生合戦

 天文八年(1539)二月以前、出雲尼子氏方の勢力が備後北部の志和地城を攻略。これと呼応して、吉川氏は毛利氏勢力下の壬生城を攻めて山県表を占拠し(「毛利家文書」252)、さらに南方にまで軍事行動におよんだ。この後方支援として同じく尼子方だった武田氏も上本地まで出陣している(「吉川家文書」371)。

 吉川氏の山県表占拠に対し、毛利氏は尼子氏に使僧を派遣して愁訴したが、尼子氏は取り合わなかった(「吉川家文書」379)。天文八年九月頃、毛利氏は山県表の奪還を目指して出兵したが、吉川氏はこれを撃退している(「吉川家文書」203)。

郡山合戦と壬生氏の没落

 しかし天文十年(1541)正月、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めていた尼子勢が敗走。同年五月、武田氏も本拠地の佐東金山城が陥落して滅亡した。

 ここにいたり、吉川氏当主の吉川興経も大内方に転向。天文十一年(1542)閏三月、興経は大内義隆から大朝荘・新庄・北方の合わせて850貫の地を安堵された(「吉川家文書」386)。

 毛利氏は佐東・安南両郡に合計1000貫もの所領を得た。さらに山県郡でも、それまで吉川氏の支配下にあった本地を大内氏から与えられたらしく、天文十一年三月から翌年にかけて、上本地・下本地内の所領を次々と家臣に給付している。

 その中には、「上本地壬生分安房名」といった所領もあった(『萩藩閥閲録』巻147)。「壬生分」の呼称から、郡山合戦以前に吉川氏の傘下となった壬生氏が吉川氏から上本地に給地を得ていたことがうかがえる。そしてその所領も毛利氏のものとなった。

 以後、壬生氏の名は史料から消える。

参考文献

【壬生城の遠景】

【善福寺跡】
壬生城主山県氏の菩提寺とも伝えられる

*1:壬生元泰は「有田准拠」につても言及しているので、この頃に武田方の有田城が陥落したと推定されている。

*2:毛利元就が安芸出陣中の陶興房に対して首4つを届けている。

*3:大永五年(1525)四月、毛利元就は吉田の日蓮宗寺院智光坊に対し、「山県」が手に入ったら上本地に寺領を一所寄進することを約束している(「防長寺社由来」巻6 萩内蓮華寺)。

*4:享禄四年(1531)四月、毛利元就は壬生八幡宮の物申(神官の一種)の井上氏を被官としている(「譜録 井上玄静守常」)。